けたろうさんのことがそれとなくわかるところ
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たまにはゲーム屋らしくゲーム屋の話でもしますかね。
ゲーム製作を生業にする僕と、そうでない人との間には圧倒的にそれに関する情報の格差があるだろうけど、今日する話の本質はゲーム関連のニュースサイトやなんかで散々言われていることを、多少僕なりの言葉や観点にしただけで、そんなに変わらないと思う。Impress WatchとかITmediaとか。
切り口は、わかりやすく日本と海外の技術力の違い、にしようかな。(「海外」はあまりにざっくりし過ぎているが、要するに日本以外ということ)あくまでも「違い」なので、必ずしも「差」ではないことには注意していただきたい。
一番大きな違いをどこだと見るか。
僕は、「技術の集積」に関する意識が、最大の相違だと感じている。
例を挙げてみよう。日本でいうゲーム開発現場における「研究」は、各社あまり例外なく、開発者個人が興味を持って取り組んだことへの成果であり、その集積はソースコード等の実体として保存される。しかし、そこには他者と共有するための、出発点や設計思想、作業過程における様々な気付きといった、目に見えない要素が残されていないことが多い。もちろん、勘のいい人間はそこから盗んでいくのだが、1から10を盗めることは絶対にない。その9の部分は、要するに想像であり、事実ではないからだ。全部で10ある要素のうち10が書き記されていれば、10から20や30を引き出すことが、誰にとっても容易になる。これが、会社等の集団にとっての技術の集積になる。
一方海外は、例えば大学等の学府との連携を行って、学問として記録されていく、また研究を集団で行ったりすることがしばしばあるようだ。この流れをとると、技術は書類やデモの形として、人に見える形で集積されていく。
どちらが良い悪いではないが、師弟制度は美しいことと思うが、実際は本人間の思惑とは別にしてそんな関係が継続的に成立しないこともあるので、どこかで技術が廃れてしまう。尊敬の意を多分に込めて敢えて非難すると、伝統工芸の職人たちが怠ったように思える「技を伝統する術」の練磨が、日本のゲームの現場にも必要なように思うのだ。
ゲームは結局のところ、機械に乗っけられるロジックの礎があって初めて成立する技術職だから、閃きでモノを作るなんていう人間は、程度の低い傲慢者か、優秀なチーム編成ができる本人は技術のない人気者かのどちらかなのだ。
さて、集積が最大の違いだと書いたが、それが製品にどんな違いをもたらすのか。そこを語らなければこの話はひとまずの終着を迎えられない。
最近は物理シミュレーションの実装による破壊動作であるとか、以前ではマシンスペックや研究レベルの問題で実装されてこなかった技術が色々と導入されている。しかし、これがユーザに新鮮なゲーム体験をもたらしただろうか。実は、そうした新技術の導入は、全体のせいぜい2、3割くらいしか、ゲームアイデアとしての新鮮味には貢献していないはずなのだ。なぜなら、技術の向上はどんなものでも、ユーザの目に見えにくいところでこそ真価を発揮しているものだからだ。
例えばPS3でリリースされたリトル・ビッグ・プラネットは、物理シミュレーションをふんだんに使い話題となったが、物理シミュレーションをゲームに取り込んだ例はこれが初めてというわけではまったくない。かわいらしい見た目であるとかが相まって、また、日本では真っ向からこの題材を主題としたものが少なかったから話題になっただけだ。何が言いたいかというと、別にリトル・ビッグ・プラネットを批判したいわけではなくて、技術が直接的にユーザへの恩恵となっている例はとても少なくて、なおかつそれはそれ自体を商品のウリにしないと成立しない、という事実を提示したいのだ。
つまり、技術はそれをもって何を作るかが重要で、しかし技術の集積に違い、いや、差のある日本と海外とが、まだそれでも渡り合っている(この表現に異を唱えたい人もいると思うが)のは、何を作るかの部分の面白みが、辛うじて競り勝っているからに他ならないということだ。
それは技術の扱い方が上手いということだ。あとは、国土の狭さや人口の少なさを補う意味でも、技術を扱える人間の数を増やすことがとても大事で、そのためにも技術の集積が肝要だろうと、僕は思うわけだ。
戦いは、そこから始まるんじゃないか。
要するに、「いいからググれ」を素でできるようにしないといけないね、という話。
おしまい。
ゲームのタイトルの話とかしてねえ!
ところで、こいつがとっても僕の購入意欲をそそるんだ。
スターフィンガーのアタッチメントがシュール。
便器を舐めさせられそうなポルポルのように、予約注文ボタンをクリックしそうになる。
○中編小説進行状況
合計9.7KB。か、書いてねえ!
ゲーム製作を生業にする僕と、そうでない人との間には圧倒的にそれに関する情報の格差があるだろうけど、今日する話の本質はゲーム関連のニュースサイトやなんかで散々言われていることを、多少僕なりの言葉や観点にしただけで、そんなに変わらないと思う。Impress WatchとかITmediaとか。
切り口は、わかりやすく日本と海外の技術力の違い、にしようかな。(「海外」はあまりにざっくりし過ぎているが、要するに日本以外ということ)あくまでも「違い」なので、必ずしも「差」ではないことには注意していただきたい。
一番大きな違いをどこだと見るか。
僕は、「技術の集積」に関する意識が、最大の相違だと感じている。
例を挙げてみよう。日本でいうゲーム開発現場における「研究」は、各社あまり例外なく、開発者個人が興味を持って取り組んだことへの成果であり、その集積はソースコード等の実体として保存される。しかし、そこには他者と共有するための、出発点や設計思想、作業過程における様々な気付きといった、目に見えない要素が残されていないことが多い。もちろん、勘のいい人間はそこから盗んでいくのだが、1から10を盗めることは絶対にない。その9の部分は、要するに想像であり、事実ではないからだ。全部で10ある要素のうち10が書き記されていれば、10から20や30を引き出すことが、誰にとっても容易になる。これが、会社等の集団にとっての技術の集積になる。
一方海外は、例えば大学等の学府との連携を行って、学問として記録されていく、また研究を集団で行ったりすることがしばしばあるようだ。この流れをとると、技術は書類やデモの形として、人に見える形で集積されていく。
どちらが良い悪いではないが、師弟制度は美しいことと思うが、実際は本人間の思惑とは別にしてそんな関係が継続的に成立しないこともあるので、どこかで技術が廃れてしまう。尊敬の意を多分に込めて敢えて非難すると、伝統工芸の職人たちが怠ったように思える「技を伝統する術」の練磨が、日本のゲームの現場にも必要なように思うのだ。
ゲームは結局のところ、機械に乗っけられるロジックの礎があって初めて成立する技術職だから、閃きでモノを作るなんていう人間は、程度の低い傲慢者か、優秀なチーム編成ができる本人は技術のない人気者かのどちらかなのだ。
さて、集積が最大の違いだと書いたが、それが製品にどんな違いをもたらすのか。そこを語らなければこの話はひとまずの終着を迎えられない。
最近は物理シミュレーションの実装による破壊動作であるとか、以前ではマシンスペックや研究レベルの問題で実装されてこなかった技術が色々と導入されている。しかし、これがユーザに新鮮なゲーム体験をもたらしただろうか。実は、そうした新技術の導入は、全体のせいぜい2、3割くらいしか、ゲームアイデアとしての新鮮味には貢献していないはずなのだ。なぜなら、技術の向上はどんなものでも、ユーザの目に見えにくいところでこそ真価を発揮しているものだからだ。
例えばPS3でリリースされたリトル・ビッグ・プラネットは、物理シミュレーションをふんだんに使い話題となったが、物理シミュレーションをゲームに取り込んだ例はこれが初めてというわけではまったくない。かわいらしい見た目であるとかが相まって、また、日本では真っ向からこの題材を主題としたものが少なかったから話題になっただけだ。何が言いたいかというと、別にリトル・ビッグ・プラネットを批判したいわけではなくて、技術が直接的にユーザへの恩恵となっている例はとても少なくて、なおかつそれはそれ自体を商品のウリにしないと成立しない、という事実を提示したいのだ。
つまり、技術はそれをもって何を作るかが重要で、しかし技術の集積に違い、いや、差のある日本と海外とが、まだそれでも渡り合っている(この表現に異を唱えたい人もいると思うが)のは、何を作るかの部分の面白みが、辛うじて競り勝っているからに他ならないということだ。
それは技術の扱い方が上手いということだ。あとは、国土の狭さや人口の少なさを補う意味でも、技術を扱える人間の数を増やすことがとても大事で、そのためにも技術の集積が肝要だろうと、僕は思うわけだ。
戦いは、そこから始まるんじゃないか。
要するに、「いいからググれ」を素でできるようにしないといけないね、という話。
おしまい。
ゲームのタイトルの話とかしてねえ!
ところで、こいつがとっても僕の購入意欲をそそるんだ。
スターフィンガーのアタッチメントがシュール。
便器を舐めさせられそうなポルポルのように、予約注文ボタンをクリックしそうになる。
○中編小説進行状況
合計9.7KB。か、書いてねえ!
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