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けたろうさんのことがそれとなくわかるところ
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「因数」とは、「積(かけ算)を構成する数や式」のこと。
「因数分解」はそうした「因数」を見出す行為である。
つまり、「基本的な構成要素への帰着」が狙いとなる。
重要なのは、「因数分解」は方法であって、ほとんどの場合目的たり得ないということだ。
授業等では「因数≒素数」だという風に割り切って教えるケースもあるようだし、「因数分解」はしばしば「二次関数」から導入されてしまうため解法の一種だと誤解される。
しかしこの教え方は実に危険だ。
「因数」を取り出す理由が示されないまま話が進むと、その概念的過ぎる感触に辟易とすることだろう。
「わけわかんない」という印象を強めるのも当然だ。
この教え方は、レントゲン撮影をしただけで骨折がすぐに治る、と言うくらい勇み足だ。それはただの透過図に過ぎなくて、治療方法を導き出す助けにしようというだけなのだから。

「因数」は英語で言うと「Factor」で、通常日本語へは「要素、要因」と訳される。
出された「料理」を見て、「レシピ」という要素を推察するようなものなのだ、「因数分解」は。
そうやって、解釈を平易にし、深い納得をするきっかけを与えてくれるのが「因数分解」という方法なのである。

なぜ最初のお題として「因数分解」を選んだのか。
それはとても簡単なことで、最も日常への応用が容易かつ有効な「方法」だからだ。

例えば計算。
九九を覚えたてで、2桁の計算をしたことがない人がいたとしよう。
その人が12×3に挑まなければいけない。
なんじゃこりゃ、九九に12なんてないぞ。どうしたらいいんだ。
そんな時、「12=4×3」であることに気づくことができたら。
問題は「4×3×3」なのだと読み解くことができる。
つまり「4×9」という、自分の知っているフィールドへ敵を引きずり込むことができるわけだ。
もちろん、「4」をさらに「2×2」へ分解し、「3×2」が2つあるものとして「6×6」からアプローチしても良い。この場合は習う通り素因数になる。

例えば料理。
「葉のついた大根」がある。これを「因数分解」してみる。
・「葉」は切っておひたしにできそうだ。
・「根の葉に近い部分」は甘みがあるからおろしにしよう。
・「根の葉から遠い部分」は辛いから味噌汁の具に使おう。
これで3品のきっかけを得ることができる。
「料理を何品か作りたい」という目的がまずあった場合にこのやり方は有効そうだ。
「秋刀魚があるから大根おろしが欲しい」をとっかかりにすると、すべてをおろしてしまって味噌汁の具が一品減るハメになるかもしれない。
満足感ちょっとダウン。

例えば物語。
Aという男がBという男と争う。AはCという男とも争う。BとCも争う。最終的にAが勝利する。
そんな構図の物語があって、仮に「なんかこの話くどいな」と感じて対処を検討するとしたら。
「男A」「男B」「男C」「三つ巴の争い」「Aの勝利」くらいに分解して、そこから先はまあ色々考えられるんだけど、
・「AvsB&C。ただしBとCは利害の一致のみで建前の協力関係」とすれば、対立軸を簡略化できる
・最終的に「Aの勝利」へ至ればいいなら、「AvsC」は過去のものとして処理し、進行形の時間軸上は「AvsB」に絞る
・見せ場を個別に作ると映像的な時間なり文章的な量なりを食ってしまうので、「AvsBvsC」は同時に行う形にする
ざっとこんな感じでスリムにできるかもしれない。
あるいは一部の要素を差し替えてもいいだろう。
登場人物を「男」と「A」「B」「C」へとさらにばらして1人くらい「女」にしてみるとかね。
この場合は簡略化じゃなくて味の路線変更となるけれど、より良くなるきっかけになり得る。

例えば社会。
Aさんはお酒好きで運動好きの体育会系。
Bさんは食事に関心の強いゲーム好きなインドア派。
Cさんは下戸だがそれ以外は活発な人。
そんな集まりに参加する時。どんな場所へ集まって何をするのがいいだろうか。
すべての人をなるべく満たすには、例えばボウリングやビリヤードなんかで遊び、食事は料理メインでお酒もそこそこある、みたいなチョイスが無難ということになるだろう。
これは「公約数」の考え方だ。(公約数:複数の数において共通した約数≒因数のこと。6と4なら、公約数は2)
実際にはそこに立場だとか、詳細な人柄だとか、もっともっと多くの情報が入り組んで配置されていて複雑さを極めているものだが、このように公約数のアタリをつけることは、日本の社会においてはえらく重要な素養となっている。

他にも適用できるケースはいくらだってある。ゴマンとある。
一面的な言い方にはなるが、僕らは日々、相当に瞬間的に、「因数分解」を行っている。
効率を考えたり、問題の解決へ取り組む場合には、必ずそれらしき発想を通過しているはずなのである。

僕らが戸惑う時というのは、一見した数字の大きさが立ち塞がったような時だ。
「1億円」というと財布に入れるには大金だが、例えば「月収25万円×400回」だとしたら、30年ちょっとの収入に相当することになる。
それが高いのか安いのか、げんなりするか嬉々とするかはこの項の主題ではないから置いておくとして、大切なのは、「程度を把握しやすくなった」ことだ。
もしくは、一見して複雑な事案に直面してしまった時だ。
「恋人が最近ひどく疲れている」
どうや事情を聞いてみると「母が辛い病気をしていて、父は仕事に忙殺され、その娘は入社したての職場で日々悪戦苦闘している」ということらしい。
そんな状況である時に、恋人である自分に何ができるか。なるほど「因数分解」だ。
母の病気を治すか、父の仕事を手伝うか、いやいやそれは入り込み過ぎだから、せいぜい娘のストレス解消の助けくらいはしてあげられないものか。ストレスの原因は何にあるのか。また「因数分解」だ。

要領の良い人というのは、こういうことをするするっと処理する人のことだろう。
これは今回の連載すべてに通ずる話だが、数学は「たまたま『数字』に焦点を当てているのだ」と考えるのがちょうど良い。
「因数分解」は問題解決の一助を颯爽とこなしてくれる優れた方法だ。

【結論:「因数分解」は効率化の特効薬。そして処世術】

さて、次回は「関数」でいきます。
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集中連載的シリーズ「数学に着想を得て真理を求めんとす」。
略して「スチャシントス」を何回かに分けて書いてみる。

僕はこれを、今回用にと新たに考えたわけではない。
日頃常々の思考へと高頻度に登場する題材で、思想に近いところへ迫っていると言ってもいいかもしれない。
文面にしたのは初めてだし、なにより僕の数学の学習は高校2年でほぼ止まっている。
理解の不正確な部分もあるかもしれないが、お付き合いいただきたい。

まず、個別の記事へと入る前に、数学という学問をいかなるものだと僕が捉えているかを述べておきます。
以降の連載すべてに通ずる「定義」がこれ。

【数学とは、空想を形にする学問である】

本来は「量、空間etc.を対象として、定理を導き出し、体系づくること」というのが定義のようだが、僕はとにかく数学の「『ある仮定』から着手して推論を押し進め、結論を導き出す」という方法を気に入っているのだ。
平易なイマドキ言葉で書こう。
「もし○○だったら、●●●になるんじゃね?」
この思考実験的な営みこそが数学であり、そこに広がるのはあまねく空想を具体化する方法論のたまり場なのだ。
※あくまでもこれは広義的解釈で、本当のところはもうちょっと焦点が絞られているので、あくまでも「数学的」だと形容するべき。

さて、初回は「因数分解」。
なんだっけそれ、という人もいることだろうから、はじめに簡単な解説を入れるようにしようと思う。



 東日本大震災から26日。現時点でのけたろう的地震を通して思ったことまとめ。
書き散らしまとめ。


○耐震見本市
被害の全容など知らない。思い出の品が壊れて悲しんでいる人もいるだろうし、倒れたモノや割れたモノでケガをした人もいるだろう。土砂に埋もれて死んでしまった人もいるんだろうし、それを助けようとして死んでしまった人もいるかもしれない。断片的に伝わってくる物語と、起きた事象から思い浮かぶ範囲での想像はすれど、それは一向に現実へと追いつかない。津波による被害はその想像の範囲をさらに途方もなく広大にするし、原発の話ともなると、もはやとんとよくわからない。
しかし、観測史上最大級の地震にも関わらず、揺れそのものによる被害はびっくりするほど軽微。被害がなかったわけじゃないけど、それにしたって軽微。地震の多い国とはいえ、日本の耐震基準やそれに合わせる技術水準がいかに高いかという、動かぬ証拠である。耐震において、国民性も含めて、これを超える国は世界中探しても一国だって存在しないんじゃないか。
まして首都があれだけ揺れても機能麻痺や事故もろくに起きず、あってもものの数日でおおむね復旧してしまう回復力だって備えている。
僕らが生活しているのはそういう環境で、確かに津波やら原発やらは大変な事態だが、その大変な事態を「大変だなー」と言っていられるのは、その環境のおかげであり、過去の被災者が積み重ねてきた経験談やこれまで各人が自身で地震を体感してきた情報の蓄積があったからだ。
ミゾユーの災害のすぐ後に、ノンキにこんな記事を書けちゃうこの国の耐久力は、素直に喜んでいたい。
慎重さをもたらす悲観なら特性として歓迎するけど、身を滅ぼす悲観はヨソでやってくれないか。
この国は耐震見本市としての価値があるんだから。


○TVが、ソーシャルメディアが、みたいな話題を語ること
地震によって、ソーシャルメディアの優れた特性と問題点が浮き彫りになった――
そんな話はそこかしこで「有識者」の皆さんが展開していて、「なるほどなー」という感じなので気になる人は読んでみればいい。さとなおさんとか、とってもわかりやすい。

僕は若造なので、安全圏にいた若造たちに話をしたい。
例えばツイッターを眺めていて、既に持っていた知識や、今回新たにかき集めた知識を得意げに披露する「亜有識者」がたくさんいた。それはいつだっているんだけど、「地震」という共通のキーワードにこぞって反応し合う姿が見れた。
だが所詮そこは「亜有識者」。「亜有識者」がすることは次の2つのどちらかだ。敵わないことを知りつつ「有識者」のスキを突こうとするか、「亜有識者」以下の存在(少なくとも当人から見て)に対して知識を披露するかだ。この2つには共通しているところがあって、「安全圏にいる者同士の遊び」の範疇を出ないこと。
生存確認のために、救援依頼のために、そうした用途で活躍したネットワークの威力たるや、すさまじいものがあるだろう。あっただろう。
でも、そのネットワークを最大限に活かせる人たちがしていたことは、そういったつまんないキャッチボールが多かったように感じた。その「つまんないキャッチボール」はデマやウワサをたくさん生んでしまった。彼らはトイレットペーパーを買い占めた人たちを大いに馬鹿にしたけれど、やってることの性質はなんだかほとんど変わらない。有用な情報交換は行なわれるべきだけども。
悲しいなあと思ったのは、ゲーム開発とかウェブ開発とかそれらのエンジニアとか、それに近いことを生業にしていたり、目指していたりする、造詣のある若造が、わりとコレをやっているように感じたこと。もちろんそればかりではない。情報をまとめるプログラムをささっと仕上げたり、情報の交通整理(通学路の旗振り程度の、局所的なものかもしれないけど)に腐心したり、ボランティアをしていた人もたくさんいる。すばらしい。でも、なんだかひけらかしてる奴、多かったなあと。
いろんな人がいるんだし、それでもいいじゃんとも言える。でも、若造はどこかつけ上がっている。そういう風体だ。事実、ネットだパソコンだを使いこなせない奴を馬鹿呼ばわりしたり、代名詞として団塊の世代を挙げてみたりする輩は非常に多い。発言はしないまでも、そういう気分をバックにしている奴はかなりいる。僕もそんな若造の1人だと言っていい。
僕ら若造が「想像力が欠如している」みたいな言われ方をされちゃいがちな要因が、その辺にあるんだと思うんだよなー。「事実を尊ぶ」昨今の論調を薄気味悪く思うことがある。そんなに情報が欲しいか。要らないわけじゃないけど、それがなくたって、案外取るべき行動は、おのずと取っちゃう行動は、そんなに変わらないんじゃねーの? 揺れたら怯えるし、保身のために腹を満たすし、誰かを助けようと思う奴は思うし、ねえ。


○やらない善よりやる偽善
このテの言葉をこの数週間何度も見かけたが、それこそ綺麗事にもほどがあって虫唾が走る。
本質は「偽善」という言葉に対してのアンチテーゼを、しかも捻じ曲がった表現で行っているのに、あたかも真っ直ぐなことかのように言っちゃってさ。言っとくけどな、この場合の「やる偽善」をやる奴は、それを善だと信じこそすれ、偽善かもなんて考えたりしないんだよ。善だという気分に傾いてるから行動すんだよ。それをやる偽善だとか言って綺麗な話かのように勝手に化粧してあげちゃってさ。余計なことしてやんなよ。泥塗ってんのと質的に変わらないっての。
「何もしない自分よりは」なんて、保険かけた物言いすんなよ。ただ「良い」って言えよ。そんな冠かぶせるからイビツになるんだろうが。
肯定的にとらえるいい話でもすると思ったか、この僕が。バーカバーカ!!

で、僕はというと、何もコレといってしてないので、±0です。そしてソレは悪なのです。


しかして、「対抗」するばかりではなんだか無能っぽいので、自ら仕掛ける「特攻」が性に合う男を心がけないと腐りそう。
いや、だったらもう腐ってる。



 俺様の属性を考える。

男女:「女」分が歳をとるごとに抜けていく「男」
文理:「文」の気分はけっこうわかるつもりの「理」
朝昼夜:迷うことなく「夜」
喜怒哀楽:間違いなく「怒」
風林火山:悩んだ上で「林」
木火土金水:難しいなーと思いつつ「火」
陰陽:案外「陽」
水土大気火:ポッと出的に「火」

これくらいにしておこう。
合っているかどうかは大した問題じゃない感。
焦点を合わせるべきは、なぜこうした倫理が存在するのかを考慮しつつ該当すると判断した理由にズバリ。
思考実験的なもので、カテゴライズをする時に自分の中に生じる反発とか込みで考えると面白くなってくる。

地震の話題はねー、起きた当時自分がどうしたかメモを残そうかと思ったけど、それくらい。
そりゃ多少なりとビビるし、震災直撃の方々に思いを馳せもするけど、こちとら五体満足で衣食住もほぼ安定してるんだし、平常運転するしかないじゃない。
東北の分まで経済支えとくよってなもんさね。



人が何かをするためには「心技体」が必要だ。

心は技体を通して出力される。
技は心体を形にする。
体は心技を生む礎となる。

その仕組みに例外はない。


……というのが僕にとって最も基礎的な観念。


「実現」にあたって欠かせないものの話をする。
成功例より失敗例のが説明しやすいのでそっちで。
出力する「心」が間違っているか、形にした「技」が拙いか、礎となる「体」が頼りないか。
失敗してしまう時というのは、いずれかの条件に触れている時だ。
体調が悪かったり鍛え方が足りなかったりするとロクなものができないし、
技術が足りないと不細工だったり型崩れしたりする粗悪品ができあがるし、
心根が腐っていたり独りよがりだったりすると誰にも響かなかったりする。

「創作」という単語を使わなくなって久しい。
10年くらい前の僕はそういう類の言葉をそれなりの頻度で使っていたと記憶している。
言わなくなったのは、たぶんそれを口にすることに意味がなくなったからだと思う。
どれがどれくらい自分に備わっているのか、足りていなければどうやって補うか、出っ張っているところをいかに使いこなすか……そんなことばかりを考えているのが、「プロ」という奴だと思っている。
僕はビデオゲーム開発のプロということになるが、そういう思考をビデオゲーム開発に対して向けるのが僕らの日常だ。
別に特定の業種だの学生だの主婦だのに限ったことではない。
そうした思考は必要な条件でしかなく、それをやっているからといって優れたプロというわけではないが、すべての営みはそういうもんだと思う。
僕の場合、いずれもそれなり以上で、まだまだだ。
偏差値60ちょいとかじゃないかと自己評価。

でもねえ、これは個人力の話なんである。




ほんとはお金にまつわることをつらつら書こうかと思っていたのだが、思うままに書くとウェブログ化するべきでないことになりそうなので、簡単に書くと決めた。
業界話がどんなに面白くても、ゲームが面白くなるわけじゃねえしよう。

以下の話の結論。
「ユーザーの皆さん、くれぐれもダマされないでね」。

1億かけて作ったものと10億かけて作られたものが同じ価格で提供されている事実がある。
しかしそんなことは、それなりの鑑定眼がなければわかりっこない。
敢えて悪く言うと、「節穴の消費者に贋作を掴ませる」商売が、成立してしまっている。

もちろん、製作に要したコストと販売価格がいつだってキレイに比例するわけではない。
1億のソフトが2億のソフトに肉薄することはある。
でも、開発者や製作者、販売者もそれを飯の種にしていて馬鹿ではない。
経費の差はそのまま地力の差になることがほとんどだ。
どうしたって商品の質に表れる。
だから、1億のソフトが2億のソフトに迫ることはあっても、上回る例はまあそうそうないと言っていい。
「販売価格」と「製作コスト=品質」との差を埋めるのは、「ユーザーが気に留めない」か、「ユーザーがわかっていても良しとするか」になってしまう。
「ユーザーの価値観次第だ」という言い方で片付けるのは簡単だが、「ユーザーに責任を丸投げしている」とも言える。

生活になくてもいいビデオゲームの価値など、他以上に相対的なものだから、その形式自体が間違っているとは思わない。
ただ、「この価格、この内容で了解してもらえるなら」という注釈が常に寄り添っていることはどうか自覚していてほしいなあと思う。(買い物ってそういうもんだ、と言えばそうなのだが)

ゲームの中身に対する非難も応援もわりとありがたく受け止めるけど、商売の形態の部分は一開発者にはどうにもしようがない部分がある。
販売形態や価格の部分を責められても「はい、そうですね」というのが本音だ。
ほんとはこういうことを言うのはよかないよなーとは思う。
そういう取り巻きに対する了解も含めて業界に身を置いているつもりだから、こういうこと言っちゃうのは反則だしかっこわるいなーと思う。
でも、損をしてほしいとはこれっぽっちも思っていないし、できればそういう損得を抜きにして楽しんでもらいたい。
身銭を切って、実生活の大事な時間を使ってゲームに触れるのだから、せめて遊んでいる間はそんなつまらないものからは離脱してほしいと思っている。
力の至らなさも多々あって、なかなかそうならない。
せいぜい、達成できている部分を達成感に転化して、次はもっとマシにするくらいしか。

次回は「じゃあなんでゲーム開発に居座るか」について。



返事。
長くなりそうだったので記事扱いに。

>ばしこう
僕が言っていた芸能は、君の指摘とは間逆で、「ゲイノウジン」に付随するような「ゲイノウ」。
「伝統芸能」的な見方をされないことも弱点の一つではあるだろうけど、切り口としては「ゲイノウ」として生きていないから「伝統芸能」になれないのでは、という感じ。
普通は逆なのかもしれないけど、ご時世からしてそのベクトルでないと「伝統芸能」にはなりえないように思うので。
ライブハウスや映画館や寄席に人が何百人集まって視聴する大衆娯楽とは違って、ビデオゲームはどうしても個人に根ざしてしまうところがあるから、どちらかというと小説や漫画のようなメディアとその点の特性は似ていると思うが、かといってあれらほど製作自体が個人から発露するわけでもないからね。
そうすると、「伝統芸能」たりえるだけの一種の信仰を獲得するには環境の力が必要になるんじゃねーのかなー、と。

だから、「ゲーム脳」の話題は、ゴシップとはいえゲームがここでいう「ゲイノウ」に片足突っ込んでいた瞬間ならではの出来事。
最近はそういう取り上げ方すらされず、「最近のゲームはすごいねえ」と言われるだけの隔離メディアとなりつつある。
クロヒョウがTVドラマをやってるけど、ああいうムーブメントは本当に少ない。

「プロゲーマー」の存在はイメージの定着がどちらへ転ぶか見えなくて微妙なところだよね。
要するに「すごい人がいるもんだなあ」と思ったとして、それに憧れ目指せるか、それに呆れ気味悪がるか。
囲碁とか将棋とかの打ち手はある程度社会的地位を認められているけど、それは「数百年以上の歴史があるから」って裏打ちの効能も小さくないと思うし。
バックボーンがあれば人はいやに納得してしまうものだから。
そういう武装の弱さが、ビデオゲームを戦えない、戦いにくい現状へ追い込んでいる原因なんだと思うんだけどね。


>怪詩人
確かに「番組が面白ければ」成立はするだろうけど、
それをやるためには最低でも個人レベルでの強力なコネクションが必要になることと、
「ゲームである必要性」を見出すことが異様に難しいだろうことはうけあい。

昔は早朝や深夜にゲームの情報番組があったけど、もはやそんなものはないし。
伊集院光がラジオでしゃべることがあるとか、いわゆる「ゲイノウ」メディアからの発信は、
ほんとそんなもんなんじゃないだろうか。


これらを解消するには、色んなアプローチが必要だと思っていて、
例えば僕はゲーム開発者としてはいわゆる「キャラモノ」ばっかりやっているけど、
そういうタイトルが馬鹿にされないだけの存在であったなら、
もうちょっとマシだったんじゃないか、とか思うわけです。
「キャラモノだから(どうせ)ダメ」って風潮は、事実の堆積からできたものだから、
真面目にやんなかった先人たちは朽ち果てろよと思うし、
自身のこれまでの行動に反吐が出るとこもあるし。

「画期的」なモノが必ずしも世を救うわけじゃないというか、
ビデオゲームにおける「画期的」なものは、徐々に内向的になり過ぎている感もあるし。
実名の例で申し訳ないけど、開発者や血の濃いゲーム愛好家からグラスホッパー・マニファクチュアの開発タイトルは熱い支持を受けている面もあるけど、そもそもゲームに興味のない人にとっては「やっぱゲームって変なの」と思われる材料になってしまいかねない部分もある、っていうか。(もちろん、ゲームに興味のなかった人がこれをきっかけに手を伸ばす可能性もあると知りつつ)

だから、色んなタイトルが必要なんす。
ただ、一つの条件が必要で、それはすべてが「伝統の礎たり得る何か」を持っていること。
「伝統」は数々の人の記憶が連綿と積み重なってできあがっていくものだと思うので、
「昔遊んだ○○はけっこう面白かったな」とか「△△は自分にとってバイブル的な存在」とか、
そういう思いをどれだけ抱かせてこれたかが大事っていうか。
埋没しない強烈な思い出にならなくてもよくて、とにかく最低限、ビデオゲームに悪い印象を持たれないことを続けていくしかないんじゃないか、とね。



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