けたろうさんのことがそれとなくわかるところ
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■最近の我が体調
ここ2ヶ月ほどで、かつて見られなかった変化が、食生活に。
・大盛が入っていかない
どちらかと言えば間違いなくよく食べる方なのだが、ここのところ食が細っている。
特に炭水化物の摂取量は減っていく一方。
・炭酸飲料が入っていかない
元々清涼飲料水的な炭酸飲料はそんなに飲まない(母が基本的にジュースを飲ませない方針だった)んだけど、ここのところ買ったとしても飲み干せなくなってきている。
それどころか、ビールまでも500ml缶は辛い。
飲めるけど、残り200mlを切ったあたりからペースが落ちる。
量に対するコストパフォーマンスで言うと500ml缶のが上だが、350mlにしておかないと気が抜けがち。
夏バテと呼んでいいのか。
■日曜日に1日で映画を2本観てきた
「アウトレイジ」と「ぼくのエリ」。
核心に触れない程度の書き方になるべくしておくけど、ネタバレがないわけではないですよ。
○アウトレイジ
ヤクザ映画ではあるが、負の螺旋を描く人同士の関係性は、社会のメカニズムを端的に表している。
「弱い奴から傷つく(結果として作中では死ぬ)⇒鬱憤たまって下克上」
基本的にはこのサイクルを繰り返しているが、ただし始まりから最後に向かって「下克上」の規模は連鎖的に膨れ上がっていく。
「アウトレイジ」ではこの「下克上」がほぼすべて成功している(失敗している場合は、最終的な成功者の計画内に組み込まれている)が、現実は頓挫したり破られたりして霧散することも少なくない。
まあ、ここまでは観りゃ誰にでもわかるただの構造の話。
この映画の実体は、「老い」だと思う。
ビートたけし演じる大友は、意外なほど画面に映っている時間が長くない。
「大友組」という小さな組織全体を主人公だと見るのが順当かと思うが、「大友組」として動く時の大半は水野を筆頭としたその構成員となるので、大友自身が動くのは「それ以外に選択肢がない」状況のみだから、それは必然的だ。
大友自身が動いたのは計4回。最初の1回を除いていずれも「やらされた」こと。(もっとも、その最初の1回が最後っ屁の原因になるのだが)
自身が動かざるをえなかった結果として寸詰まりとなった大友組に待っていたのは組織の壊滅だ。
この組織を1人の人間と見立てると、組長である大友は頭や心臓となるが、手足をもがれ五体不満足となった大友組の頭であり心臓部がとった選択肢は、「負けは負け」と言いつつも警察に自首をして恥も外聞もなく難を逃れようとすることだった。
このシーンで、北野武は「老い」を見せつけてくれた、と思った。
「ああ、この人はじいさんになって、じいさんになったから最後の仕事に取り掛かり始めたのかもなあ」
暴力や姦計の描写、エピローグ的シーンたちは皮肉っぽい最後の一味として、鮮烈な印象を与えてくれたが、「で、おいらこれを選んじゃうわけ」というたけしさんの声が聞こえてきそうな生々しさの方がより強烈だった。
ビートたけし、北野武に興味がある中で観たからそう思ったのか、否か。
○ぼくのエリ 200歳の少女
本国での公開は2008年らしいが、日本公開まで2年かかったのは何か事情があるのかしら。
ともかく言えることは、観てよかったな、ということ。
切り取り方が色々とある映画だなあ、と思った。
オスカーに寄った観方をすれば、彼の初恋の物語であり、狂気を伴ったようにも見えるその様子はしかし通過儀礼だとも言えるだろう。
家では離婚した両親の間で戸惑い、学校ではいじめに遭い、鬱屈としていた彼にもたらされた光明としての恋。
そこを中心にして見ると、どこまでも甘い。
エリに寄った観方をすれば、人間より何倍も長い彼女の生の中で、幾度目かの恋の一幕だ。
しかしそれはとても動物的で、長寿であるが故に繁殖を必要としないものの、生きながらえるための衣食住の確保に必要な伴侶を見繕う作業だと言える。
作中前半まで伴っていたじいさんは、かつてオスカーのように恋をした仲なのだろう。
だが、じいさんはエリのために動き、エリのために死ぬ。
そこを中心にして見ると、残酷な物語だ。
エリはオスカーに生き方を提示する。
「やられたらやり返せ」「生きるために必要なら殺す」
オスカーは孤独に溜め込んできたうっ憤を不器用にエリへの想いに変換する。
二人の一方通行なやりとりは不思議とかみ合い、距離を縮めていく。
そういう構造を思い出しながら、エリの視点を知ってオスカーから見ると、食いものにされてなお狂信的に慕情を傾ける儚さが(オスカーの心情とは別に)印象づく。
一方オスカーの視点をもってエリを見ると、連綿と続いてきた彼女の生に対するリアリティが見えてくる思い。
じいさんをオスカーの未来予想図と受け取るかどうかは、それこそ観客の資質によるところだろう。
確かにオスカーとじいさんを交互に描写して対比していたが、その結果がどこへ向いているかは示されていない。
でも、すべては招き招かれた二人の愛情の物語ということでくくられる。
白と黒と赤の3色でまとめられた、どこをとっても美しい情景はため息モノ。
満足そうにモールス信号を送るオスカーにどんな生が待っているかはわからない。
僕は、ハッピーエンドだったと思った。
明日は三重に日帰りで行く。
ここ2ヶ月ほどで、かつて見られなかった変化が、食生活に。
・大盛が入っていかない
どちらかと言えば間違いなくよく食べる方なのだが、ここのところ食が細っている。
特に炭水化物の摂取量は減っていく一方。
・炭酸飲料が入っていかない
元々清涼飲料水的な炭酸飲料はそんなに飲まない(母が基本的にジュースを飲ませない方針だった)んだけど、ここのところ買ったとしても飲み干せなくなってきている。
それどころか、ビールまでも500ml缶は辛い。
飲めるけど、残り200mlを切ったあたりからペースが落ちる。
量に対するコストパフォーマンスで言うと500ml缶のが上だが、350mlにしておかないと気が抜けがち。
夏バテと呼んでいいのか。
■日曜日に1日で映画を2本観てきた
「アウトレイジ」と「ぼくのエリ」。
核心に触れない程度の書き方になるべくしておくけど、ネタバレがないわけではないですよ。
○アウトレイジ
ヤクザ映画ではあるが、負の螺旋を描く人同士の関係性は、社会のメカニズムを端的に表している。
「弱い奴から傷つく(結果として作中では死ぬ)⇒鬱憤たまって下克上」
基本的にはこのサイクルを繰り返しているが、ただし始まりから最後に向かって「下克上」の規模は連鎖的に膨れ上がっていく。
「アウトレイジ」ではこの「下克上」がほぼすべて成功している(失敗している場合は、最終的な成功者の計画内に組み込まれている)が、現実は頓挫したり破られたりして霧散することも少なくない。
まあ、ここまでは観りゃ誰にでもわかるただの構造の話。
この映画の実体は、「老い」だと思う。
ビートたけし演じる大友は、意外なほど画面に映っている時間が長くない。
「大友組」という小さな組織全体を主人公だと見るのが順当かと思うが、「大友組」として動く時の大半は水野を筆頭としたその構成員となるので、大友自身が動くのは「それ以外に選択肢がない」状況のみだから、それは必然的だ。
大友自身が動いたのは計4回。最初の1回を除いていずれも「やらされた」こと。(もっとも、その最初の1回が最後っ屁の原因になるのだが)
自身が動かざるをえなかった結果として寸詰まりとなった大友組に待っていたのは組織の壊滅だ。
この組織を1人の人間と見立てると、組長である大友は頭や心臓となるが、手足をもがれ五体不満足となった大友組の頭であり心臓部がとった選択肢は、「負けは負け」と言いつつも警察に自首をして恥も外聞もなく難を逃れようとすることだった。
このシーンで、北野武は「老い」を見せつけてくれた、と思った。
「ああ、この人はじいさんになって、じいさんになったから最後の仕事に取り掛かり始めたのかもなあ」
暴力や姦計の描写、エピローグ的シーンたちは皮肉っぽい最後の一味として、鮮烈な印象を与えてくれたが、「で、おいらこれを選んじゃうわけ」というたけしさんの声が聞こえてきそうな生々しさの方がより強烈だった。
ビートたけし、北野武に興味がある中で観たからそう思ったのか、否か。
○ぼくのエリ 200歳の少女
本国での公開は2008年らしいが、日本公開まで2年かかったのは何か事情があるのかしら。
ともかく言えることは、観てよかったな、ということ。
切り取り方が色々とある映画だなあ、と思った。
オスカーに寄った観方をすれば、彼の初恋の物語であり、狂気を伴ったようにも見えるその様子はしかし通過儀礼だとも言えるだろう。
家では離婚した両親の間で戸惑い、学校ではいじめに遭い、鬱屈としていた彼にもたらされた光明としての恋。
そこを中心にして見ると、どこまでも甘い。
エリに寄った観方をすれば、人間より何倍も長い彼女の生の中で、幾度目かの恋の一幕だ。
しかしそれはとても動物的で、長寿であるが故に繁殖を必要としないものの、生きながらえるための衣食住の確保に必要な伴侶を見繕う作業だと言える。
作中前半まで伴っていたじいさんは、かつてオスカーのように恋をした仲なのだろう。
だが、じいさんはエリのために動き、エリのために死ぬ。
そこを中心にして見ると、残酷な物語だ。
エリはオスカーに生き方を提示する。
「やられたらやり返せ」「生きるために必要なら殺す」
オスカーは孤独に溜め込んできたうっ憤を不器用にエリへの想いに変換する。
二人の一方通行なやりとりは不思議とかみ合い、距離を縮めていく。
そういう構造を思い出しながら、エリの視点を知ってオスカーから見ると、食いものにされてなお狂信的に慕情を傾ける儚さが(オスカーの心情とは別に)印象づく。
一方オスカーの視点をもってエリを見ると、連綿と続いてきた彼女の生に対するリアリティが見えてくる思い。
じいさんをオスカーの未来予想図と受け取るかどうかは、それこそ観客の資質によるところだろう。
確かにオスカーとじいさんを交互に描写して対比していたが、その結果がどこへ向いているかは示されていない。
でも、すべては招き招かれた二人の愛情の物語ということでくくられる。
白と黒と赤の3色でまとめられた、どこをとっても美しい情景はため息モノ。
満足そうにモールス信号を送るオスカーにどんな生が待っているかはわからない。
僕は、ハッピーエンドだったと思った。
明日は三重に日帰りで行く。
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