けたろうさんのことがそれとなくわかるところ
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先週の月曜日、僕の墓が開かれた。
と言うとなんのこっちゃだろうが、諸々あって両親が墓を購入したわけである。
近々に身内の不幸があったとか誰それがもう危ないとか、そういうことでもない。
ずいぶん前に亡くなった母方の祖父母をそこへと改葬したが、様々な意味での「準備」ということでいいんだろう。
僕は今年で27歳であり、両親は50代前半であり、平均寿命で考えれば僕は3分の1くらいを過ぎたところで、両親は既に折り返している。
そんなバックボーンの僕が思う墓というものの意義。
我が家の墓石には「逢」と一文字だけ刻まれている。
発案は僕か母親だったと思う(おぼろげ)。
ともかく、それが適切だと思っていたので、わりとすぐに決まった(気がする)。
自分が墓参りをする時のことを考える。
生きている者が死んだ者を思うため、それだけのために僕は足を向けるだろう。
死んだ者のためを思ってではきっとない。
自分が死んだ後、墓を訪れる人のことを考える。
僕を思い出したくなった人が、思い出す理由を作るために来ればいいと思う。
その時僕は、それを嬉しく感じたり寂しく思ったりすることはできないが、それでいいと思う。
順番を間違えなければ、何十年か後に、その墓へと両親は葬られているだろう。
そして僕は「逢」と書かれた墓石の前に、自分のために立ちに行くだろう。
母が祖父母の納骨後に、「じいちゃんは東京に来たことなかったんじゃないかなあ」とつぶやいていたのが印象に残っている。
ああ、そういう発想も、そりゃあるよなあ、と。
僕は死後の世界の存在感など頑なに拒むが、生者によってのみ動くこの世界において、そうした意味づけにこそ価値があるのだと思う。
母に比べれば祖父母に対する僕の思いなど薄く、僕の息子や娘(いないけど)の僕の両親に対する思いなど僕に比べればちっぽけで、息子や娘が僕に向ける思いに比べれば孫からの愛着など瑣末だったりするだろう。
そういう連鎖を経て少しずつでも次の世に向けて良きものを堆積させていくことが、宿命だ。
人よりたくさん、人より力強いものを残してみたい。
葬られた後にも逢いたくなるような、僕はそういう人間で在るためにも、せめてしっかり生きていたい。
と言うとなんのこっちゃだろうが、諸々あって両親が墓を購入したわけである。
近々に身内の不幸があったとか誰それがもう危ないとか、そういうことでもない。
ずいぶん前に亡くなった母方の祖父母をそこへと改葬したが、様々な意味での「準備」ということでいいんだろう。
僕は今年で27歳であり、両親は50代前半であり、平均寿命で考えれば僕は3分の1くらいを過ぎたところで、両親は既に折り返している。
そんなバックボーンの僕が思う墓というものの意義。
我が家の墓石には「逢」と一文字だけ刻まれている。
発案は僕か母親だったと思う(おぼろげ)。
ともかく、それが適切だと思っていたので、わりとすぐに決まった(気がする)。
自分が墓参りをする時のことを考える。
生きている者が死んだ者を思うため、それだけのために僕は足を向けるだろう。
死んだ者のためを思ってではきっとない。
自分が死んだ後、墓を訪れる人のことを考える。
僕を思い出したくなった人が、思い出す理由を作るために来ればいいと思う。
その時僕は、それを嬉しく感じたり寂しく思ったりすることはできないが、それでいいと思う。
順番を間違えなければ、何十年か後に、その墓へと両親は葬られているだろう。
そして僕は「逢」と書かれた墓石の前に、自分のために立ちに行くだろう。
母が祖父母の納骨後に、「じいちゃんは東京に来たことなかったんじゃないかなあ」とつぶやいていたのが印象に残っている。
ああ、そういう発想も、そりゃあるよなあ、と。
僕は死後の世界の存在感など頑なに拒むが、生者によってのみ動くこの世界において、そうした意味づけにこそ価値があるのだと思う。
母に比べれば祖父母に対する僕の思いなど薄く、僕の息子や娘(いないけど)の僕の両親に対する思いなど僕に比べればちっぽけで、息子や娘が僕に向ける思いに比べれば孫からの愛着など瑣末だったりするだろう。
そういう連鎖を経て少しずつでも次の世に向けて良きものを堆積させていくことが、宿命だ。
人よりたくさん、人より力強いものを残してみたい。
葬られた後にも逢いたくなるような、僕はそういう人間で在るためにも、せめてしっかり生きていたい。
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