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けたろうさんのことがそれとなくわかるところ
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すっかり更新する習慣がなくなってしまった。
不本意ではあるので、出力を増やしていこう。


誰かを責める意図はまったくないのだけど、思ったことを書いておく。

自分は昨年に祖母が亡くなっているので喪中なのであるが、それを知らない人や忘れている人からの新年の挨拶は、もちろん「あけましておめでとう」だ。
そうした場面では挨拶を慎んで事実を伝えるのが正道なのかもしれない。
だがしかし、「あ……ごめんなさい」となってしまうこと請け合いで、なんだかそれは水差すみたいで悪いなーと思えるから、こちらも「あけましておめでとう」と返すことにする。
「喪中だから新年の挨拶を控える」
これが一般的とされている態度だ。
喪中の身で、この行動の是非はどうなのか。

喪に服すというのは、死者による邪気や汚れを落とすまで人様と接触するのを避けるというのが本来の意味であるらしい。
しかし、今や「死者=汚れや邪気をもたらす存在」というような観念は相当に薄れていると思う。
「人が亡くなった」ことは「悲しい」ことであり、手厚く葬ることは尊ばれるが、祓いに対してはかつてほど重きを見出していないのではないか。
「喪中だから新年の挨拶を控える」という行いは、ずいぶんと形骸化していることになる。

現代の宗教観や倫理観においては「○○が亡くなったからそんな気分じゃないんだ」はわかるが、「すいません、自分、穢れてるんで」というのは、かなりしっくりこない(という人がほとんどだと思う)。
挨拶代わりに「お疲れさま」と言い合うこの国で、文化や伝統の右に倣えが通用しにくくなっているのは確実だと思うので、もはや理由を失った「喪中だから新年の挨拶を控える」ことに、僕は意義を感じない。

「あけまして~」の挨拶は、年始において「こんにちは」と同義で、その直後「今年もよろしく」と言い合うのが通例だ。
一年を一区切りに「よろしく」の気持ちを更新するのがとても有用だということは、誰しも肌身に感じていることだと思う。
だから、その機会を無下にしてしまうのはけっこうな損益ではないか。
もったいない。

そんなわけで、「別に挨拶くらい、それこそ右に倣えですりゃいいじゃん」と思っている。



余談。
TVや音響の業界は、「どんな時間だろうと挨拶はとりあえず『おはようございます』」で通っている。
要は、定着したのが「おはよう」だったからそれを使っているだけで、「やあ」でも「おっす」でも、やってることは同じだろう。

しかし、「お疲れさま」という言葉を挨拶代わりに使うことに違和感がある。
「お先に失礼します」への返しとして「お疲れさま」はわかるし、帰りを待っていた家族が顔を見て「お疲れさま」もわかる。
が、いきなり「お疲れさま」と先制されてしまうと、実際は疲れていない場合になんだかもやもやすることになる。
「言葉の意味」と「役割」が合致していないじゃんよ! と。
気にしなきゃいいのだが、僕の観念では気になるのだ。

矛盾している。
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 まあ、なんちゅうか、ああいう業界は何時でも疲れている雰囲気が(笑)

 既に相手が疲れているかもしれないことが多いからでないかね。定着の理由は。

 今年もボスでいてくれ。よろしく。
ばしこう URL 2011/01/11(Tue)【23:12】 編集
▲Re:無題
> 今年もボスでいてくれ。よろしく。

「親分」なら許可する。
「仮想敵」ならどうぞ好きにするがいい。
MasterRes 2011/01/24(Tue)【14:58】
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