忍者ブログ
けたろうさんのことがそれとなくわかるところ
[1]  [2]  [3]  [4]  [5]  [6
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。




昨日から続く感じの話。

参考のためにゲームを遊ぶとか、参考のために物語に触れる、という種類の行動はとってはいけないんじゃないかというジレンマは常にある。

見聞きしたばかりのものは鮮明に影響しがちだから、そうして盛り込まれた要素は折り合わずに拒絶反応を示してしまう場合も出てくるだろう。
たとえば観たばかりの今ひとつだった映画について、「どこをどうすればもっとよくなったのか」みたいなことを考えるのはよく行うことだけれど、それはあくまでも実験的な試みであって、そっくりそのまま何かに転用したりといったことはしないものだ。
なぜなら、今ひとつの映画にだって製作者の血は流れてしまっていて、それをそのまま使うなんてことは、善悪の意味で良い悪いよりも、気持ちの意味で気持ち悪かったりするものだから。
同人誌で原作のあるものを「自分ならこうする」と改変したり、気に入りの楽曲をアレンジしたり、といった営みはちょこちょこ見られることだけど、最低でも、馴染ませる努力が必要になってくる。
自分にとって必要な要素だけ取り出して、換骨奪胎。

インプット・吸収・アウトプットの流れが大事だと言う人がいる。
しかし、インプットの仕方自体にだって善し悪しはあるものだ。
・吸収以降の工程を見据えたインプット
・それ以降を一切度外視したインプット
後者は完全な受身なので問題ないとして、僕が気にしているのは、実はその後の考察を省略するために「参考にする」という態度の人を見かけることである。
そんなわけで「参考にしようという発想のなんと卑しいことか」などと思えてくる。
のっぴきならない悪を宿した便利な言葉だなあ、と思うのだ。

○GD作業状況
98.6KB。以前の構成よりも美しく収束しそうな気配の終盤になってきたような。

PR



たとえば海外旅行をより楽しむために、外国語を身に着けるのもいいかもしれない――
という気分はある。
でも、コンテンツ製作において海外を視野に入れる、というスタンスが僕にはうまくできそうにない、という予感も常々ある。

とはいえそもそも、海外でも当たればめっけもん、という発想ならわかるが、最初から狙いに行くのは難しいんじゃないか。
映画でも小説でも、時代性が鍵だとしたら、地域によって異なる時代性が歩いている以上、地域をまたがるのは相当に難しいことだ。
普遍的で不変的なテーマを材料にすることを大前提としたところで、そこに振り掛ける製作者の手癖や思想といったスパイスをふりかけたら、もうそれはローカルなにおいをまとってしまうからだ。
濃い口が好きな僕には息苦しい作業となることうけあい。

材料の選定と味付けが作家性だとしたら、その半分を奪われてなお成立する作品なんて、どれくらいあるだろうか。
ましてや言語という明確な村八分のある小説で、全世界に向けて、なんてことはさすがに不遜過ぎて言えない。
それよりはマシとはいえ、ゲームについても近いことは感じる。
国際性を装備していない人間が言う世界シェアだとかワールドワイドなんて言葉は、すぐさま耳にホースを突っ込んで掃除してやろうって気分になる。

その点、音楽はいい。その観点からすれば少し違うアプローチもありそうだと思うけど、cubesatoくんあたりはどう思うんだろう。<振ってみる

○GD作業状況
98.2KB。プロットの再構成を進めつつ、不都合の出た部分を書き換えたり。



ゲームの分野には評論家が絶対的に足りない。
そのせいでゲームに関わる人々は圧倒的な損をしていることを学ぶべきである。

評論家は、素人であってはもちろんいけないし、販売者、開発者であってもいけない。あくまでも、評論家、でないといけない。ファミ通の浜村弘一氏なんかが知名度や功績から一番近い人のようにも思うが、やっぱり圧倒的に頭数が足りない。
ものを知らない素人の発言が一定の影響力を得て浸透してしまう現況は、本当に忌むべきことだ。技術の手偏ほども内実を知らない人間がポリゴン数がどうたらと語り、情勢を知らない人間が予算がどうたらと語り、なんてことを無自覚な無知のまま口にし、しかも聞く側にも教養がないものだから鵜呑みとまではいかなくても、なるほどねぇなんてうなづいてしまう。
だから、自分も含めて作り手もなんだか素人くさかったりする。プロ意識に名実がない。そういった状況が、文明的文化的評価が一向に高まっていかないことにダイレクトな影響を与えている。認知の進まないものには金も下りてこないし、そうなるとやっぱり一段と前進しないのだ。悪循環というやつ。

海外の技術はやっぱりすごいとか、日本のお家芸を活かしていくしかないとか、実はそんなことを声高らかに話す前に、育つ土壌を作ってこなかったことを悔いたり建設的意見交換をしたりするべきなのだ。
僕は、今の状況でいくら足掻いたって、ただでさえ様々な理由から頭打ちの右肩下がりになりがちなこのメディアが盛り返すことはないと思っている。敢えてこの言い方をする。ユーザーがお子様だからだ。お子様相手に僕らがお子様の仕事をするからだ。

メディアに関わる人間全体が成長しないといけない。幸い、色恋沙汰で気が多いことは咎められがちだが、ゲームをたくさん遊ぶことは宿題やりなさいのお叱りと引き換えになるくらいなので、ぜひ多くのタイトルに触れ、評論の感覚を養ってもらいたい。
そして、ゲームを送出する側から搾取してやるくらいのつもりで、評論家という得てして悪役めいてしまいがちなポジションを志す人が少しずつでも現れてくれれば、事情の軌道修正に一役買うんじゃなかろうか。そういう環境が整って初めて、よろしい循環へ転じていくんじゃないかと、そう思うのだが。


○ティカルについて
ごっめん。これについてもルールに勘違いがあった。
火山タイルが出たらすぐに決算……と思っていたんだけど、あくまでもその時点の点数を確定させる、ということに過ぎないらしく、その後もすべてのタイルが埋まるまで続けるみたい。

○GD作業状況
最後の大仕掛けを決定し、今夜以降執筆開始。
リフレッシュ休暇を利用しつつ、今月中には一気に書き上げる。



「鳥人間コンテスト」2009年開催休止と2010年開催のお知らせ
鳥人間コンテストが休止になるそうで、自分が参加したとか、友人が熱意を持っていたとか、そういうことは一切ないんだけど、物寂しい感はある。そのために重ねた工夫や努力を披露する場が失われることが、どれほど衝撃的だろう。サッカーや野球などの圧倒的に認知度の高いものはもはや放っておいても盛り上がる。しかし、残念なことに、鳥人間はその域ではない。
なぜ、盛り上がるのだろう。鶏と卵的な話題ではあるが、整理してみる。(既に循環に入っているものだから、どれが始点だという話はナンセンスだし)

    1.触れる機会がある、多い
        ↓
    2.共通の話題になりやすい
        ↓
    3.憧れる対象となりやすい
        ↓
    4.志す(人によっては3に戻る)
        ↓
    5.競技人口の増加(1に還元)
        ↓
    6.平均レベルの上昇(1~3に還元)
        ↓
    7.環境の充実(1~6に還元。投資と言い換えていい)

やや競技に参加する側の視点が濃い印象だが、まあおおよそこんなところではないか。
「1~3」がファン。「4~6」が競技者。「7」はスポンサーだとか自治体とか、その他色々。細かく挙げるときりがないのでほっとく。

例えば、僕は小学校の高学年から高校までバスケをやっていたが、スラムダンクブームの真っ只中であり、シカゴブルズの黄金時代であったりと、日本のバスケ史の中でも話題に事欠かない時期だった。(JBLが多少盛り上がったり、外山が海外挑戦したりというのもあったが、マニアックな感は否めない。田伏が有名になったのはもうちょい後)つまり、「1~3」が比較的充実していた。そうなると、俄然「4」が増えて、「5」につながる。こうなると、ミクロな一例として、「『好きな人がバスケやってるからバスケに興味を持った』女の子」なんていうのが発生するのはとても自然だし、「その様子を見てバスケを始めることを決意する男の子」が派生するのもやっぱり自然だ。こんな風にして流行というのは生まれていき、循環していく。

さて、鳥人間の場合はどうだろう。「放送されない」ということで「1」を失おうとしている。また、今回は予算の関係から運営が困難という判断だから、つまり「7」も崩れた格好だ。「7」は事が進むほどに、それ以前の段階の前提となっていくので、かなり流れが悪いことになってしまった。
こうなると、2009年の放送がなかったことによって、お茶の間の話題にのぼらなくなるし、「出場大学に憧れる」というような機会は失われるし、という感じで人口が減る悪循環を生む。
披露する機会がないというのは、モチベーション維持における天敵だ。プロジェクトがポシャったりとかね。運動部に比べてどうしても目立ちにくい文化部の少年、青年たち。腐らずに力を蓄えてね。


○中編小説進行状況
合計11.0KB。週末はきっとオレ様の独壇場。



たまにはゲーム屋らしくゲーム屋の話でもしますかね。

ゲーム製作を生業にする僕と、そうでない人との間には圧倒的にそれに関する情報の格差があるだろうけど、今日する話の本質はゲーム関連のニュースサイトやなんかで散々言われていることを、多少僕なりの言葉や観点にしただけで、そんなに変わらないと思う。Impress WatchとかITmediaとか。

切り口は、わかりやすく日本と海外の技術力の違い、にしようかな。(「海外」はあまりにざっくりし過ぎているが、要するに日本以外ということ)あくまでも「違い」なので、必ずしも「差」ではないことには注意していただきたい。

一番大きな違いをどこだと見るか。
僕は、「技術の集積」に関する意識が、最大の相違だと感じている。
例を挙げてみよう。日本でいうゲーム開発現場における「研究」は、各社あまり例外なく、開発者個人が興味を持って取り組んだことへの成果であり、その集積はソースコード等の実体として保存される。しかし、そこには他者と共有するための、出発点や設計思想、作業過程における様々な気付きといった、目に見えない要素が残されていないことが多い。もちろん、勘のいい人間はそこから盗んでいくのだが、1から10を盗めることは絶対にない。その9の部分は、要するに想像であり、事実ではないからだ。全部で10ある要素のうち10が書き記されていれば、10から20や30を引き出すことが、誰にとっても容易になる。これが、会社等の集団にとっての技術の集積になる。
一方海外は、例えば大学等の学府との連携を行って、学問として記録されていく、また研究を集団で行ったりすることがしばしばあるようだ。この流れをとると、技術は書類やデモの形として、人に見える形で集積されていく。
どちらが良い悪いではないが、師弟制度は美しいことと思うが、実際は本人間の思惑とは別にしてそんな関係が継続的に成立しないこともあるので、どこかで技術が廃れてしまう。尊敬の意を多分に込めて敢えて非難すると、伝統工芸の職人たちが怠ったように思える「技を伝統する術」の練磨が、日本のゲームの現場にも必要なように思うのだ。

ゲームは結局のところ、機械に乗っけられるロジックの礎があって初めて成立する技術職だから、閃きでモノを作るなんていう人間は、程度の低い傲慢者か、優秀なチーム編成ができる本人は技術のない人気者かのどちらかなのだ。

さて、集積が最大の違いだと書いたが、それが製品にどんな違いをもたらすのか。そこを語らなければこの話はひとまずの終着を迎えられない。
最近は物理シミュレーションの実装による破壊動作であるとか、以前ではマシンスペックや研究レベルの問題で実装されてこなかった技術が色々と導入されている。しかし、これがユーザに新鮮なゲーム体験をもたらしただろうか。実は、そうした新技術の導入は、全体のせいぜい2、3割くらいしか、ゲームアイデアとしての新鮮味には貢献していないはずなのだ。なぜなら、技術の向上はどんなものでも、ユーザの目に見えにくいところでこそ真価を発揮しているものだからだ。
例えばPS3でリリースされたリトル・ビッグ・プラネットは、物理シミュレーションをふんだんに使い話題となったが、物理シミュレーションをゲームに取り込んだ例はこれが初めてというわけではまったくない。かわいらしい見た目であるとかが相まって、また、日本では真っ向からこの題材を主題としたものが少なかったから話題になっただけだ。何が言いたいかというと、別にリトル・ビッグ・プラネットを批判したいわけではなくて、技術が直接的にユーザへの恩恵となっている例はとても少なくて、なおかつそれはそれ自体を商品のウリにしないと成立しない、という事実を提示したいのだ。
つまり、技術はそれをもって何を作るかが重要で、しかし技術の集積に違い、いや、差のある日本と海外とが、まだそれでも渡り合っている(この表現に異を唱えたい人もいると思うが)のは、何を作るかの部分の面白みが、辛うじて競り勝っているからに他ならないということだ。
それは技術の扱い方が上手いということだ。あとは、国土の狭さや人口の少なさを補う意味でも、技術を扱える人間の数を増やすことがとても大事で、そのためにも技術の集積が肝要だろうと、僕は思うわけだ。
戦いは、そこから始まるんじゃないか。
要するに、「いいからググれ」を素でできるようにしないといけないね、という話。

おしまい。
ゲームのタイトルの話とかしてねえ!

超像可動 「ジョジョの奇妙な冒険」第三部 2.空条承太郎超像可動 「ジョジョの奇妙な冒険」第三部 1.スタープラチナ
ところで、こいつがとっても僕の購入意欲をそそるんだ。
スターフィンガーのアタッチメントがシュール。
便器を舐めさせられそうなポルポルのように、予約注文ボタンをクリックしそうになる。

○中編小説進行状況
合計9.7KB。か、書いてねえ!



あけたからなんだこのやろう!
っていうのが僕が例年口にしている年明けの言葉なわけだけど、揺るぎない照れ隠しとして今年も使っていくよー。

本当は更新できないはずだったんだけど、親父がどうせ使いもしないのに(飲んでばかりいるから)イーモバイルとノートPCを持ってきていたので拝借。(祖父母宅にはインターネット環境はもちろん、PCだってない)

まあそれはともかく年始から語っておくことにする。

非正規労働者の救済がどうこうという話題はなんだか強い違和感を禁じえない!

これはとてもマクロなとらえ方かもしれないが、と前置きした上で話を進める。
企業なら利潤を求めてより優秀な人材の集合とより洗練された構造を望むわけで、アウトソーシングの進む近年の業務形態は、上位となる企業が下部の企業を切り捨てるなんてことはざらだ。
アウトソーシングの本質は専門性ごとの切り出しによる運営の先鋭化だと言えるが、経営の観点からすればすなわち、責任回避や部分的な着脱の容易さからくるリスクヘッジに他ならないとも言える。(すべてがそうというわけではもちろんないけれど)

このことは企業対従業員にも言える。つまり、企業対従業員の関係におけるアウトソーシング的な意味合いが非正規労働者、いわゆる契約社員の存在だ。
契約社員は企業にとって都合のいい雇用だと叫ぶコラムニストなんかもいるが、まさしくその通りであるものの、当人は少なからずその不利さやリスクを認識して登用を受け入れたはずだ。(そうでないならただの無知か無謀に過ぎない)
確かに突然過ぎる切り捨てはどんな理由があるにせよ、主に気分的なものや倫理観から不和を生むが、敢えて言うならその程度の存在だったということだ。金額のことだけを見れば、厚生年金なんかを半額も負担している正社員の方が、よっぽど切りたい存在なのだから。

だからこそ人は心技体といった要素を身につけていくのだ。交渉の場において対等になれなかった時点で、それしか勝負をしかけ、見せつけられるものはないのだから。
そのことを気付かずに嘆く当人も、不況だと騒いで救済策の検討を始める人間たちも、どっちも僕は信用ならない。所属する企業に対して利潤を生み出すために体力を消費し、技術を身につけ提供し、神経を割いて、その対価として給与を受け取る。それが企業と従業員の交わす契約だ。
どいつもこいつもあまったれんな、あまやかすな。

余談だが、「社員」というのは「出資している人」のことを意味しているらしいので、「正社員」でも株を所持していなかったりすれば「社員」ではないし、「契約社員」なんていう言葉はとてもおかしいような。

……みたいなことを思い浮かべてしまうような昨年末の空気を、払拭してしまいたいものだ。
あー、あけたけどなんだよこんちくしょう。
 




ブログ内検索
カレンダー
07 2017/08 09
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31
最新コメント
[10/22 ヒロミ]
[09/01 もち]
[06/14 ばしこう]
[06/08 ばしこう]
[06/07 よしばやし]
最新トラックバック
(03/24)
アクセス解析
忍者ブログ [PR]