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けたろうさんのことがそれとなくわかるところ
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○劇場版TRIGUN
・総合的には「あまりにも『いつも通り』」な内容。
ナイヴズとかじゃなくて、ネブラスカ親子とかブリリアント・ダイナマイト・ネオン的な意味で。
・ヴァッシュの旧仕様コートと新仕様コート、両方見られてよかった。
・TRIGUNだけど、登場する銃は1種のみ。残念なようなそうあるべきのような。ファン心理的には、劇場版の作画で左腕の仕込み銃の動作を見てみたかった、かな。
・一部演出がうるさい。回想シーンとウルフウッドの八つ当たりはもっと抑えめで構わなかった気がする。
・映画そのものとは関係ないが、他の観客の笑いの沸点が異様に低く感じた。
素直な視聴者と感心するべきか、愚鈍な豚共と罵るべきか。

○天装戦隊ゴセイジャー
・途中で寝て7:58に起きた。なんかもう、不思議なほどゴセイジャーには興味を持てないので起きるのやめようかな。惹かれるヒーロー像が全然見えてこないからだと思う。殿様たちが懐かしい。

○仮面ライダーW
・やっぱり関係崩壊⇒復活までが駆け足過ぎる。
・パワーアップもなんだか唐突に見えてくる。
・とはいえエクストリーム! 圧倒的に強い存在は見ていて爽快。男の子的真理。

○ハートキャッチプリキュア
・非常に安定して魅力的なえりかことマリンことえりか。昔なら好きにならない系統のキャラ造形なんだけどなあ。


ところで、携帯を買い換えてみようかと思うんだけど、Xperiaどうなんすかね。

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「iなんちゃら」と名のつく商品を、ついぞ購入したことがない。
「iPod」「iPhone」「iPad」。「iモード」は使ってるけど。
中学・高校生の頃は携帯音楽プレイヤーも好んで持っていたけど、ここ7、8年くらい使った記憶がない。
理由は色々ある。
音楽を落ち着いて楽しみたくなったのと、仕事を始めてからは携帯ゲーム機を触る時間が劇的に増えたのと。
携帯電話にしたって見た目5年モノ、実際は2年半モノで間に合っているから(近日買い替え予定だが)、買い換えたりするくらいならゲームソフトの1本も買った方がマシというものだ、という発想。
ともかく、自分なりの必然性はあってそういう流れを辿っているのだが、どうも周辺の近い年代の連中を見ていると「珍しい」ことになってしまっているようだ。

ユーザーの感覚から外れないためにも、彼らの思うであろう「時勢」を共有しておくことは自分の職務の一環だと考えているが、この点においてはそういえばうっかりやりそびれている。
もはや今更かなあと思うので手を伸ばす気もないのだけど、怠慢なように思わないでもない。
1つのイヤホン、1つのMDプレイヤーで航くんと同じ音楽を聴いていた頃が懐かしい。


音楽と言えば、学生時代から数年来持っていた野望の一つを果たせそうな気配。
友人と、仕事仲間になること。
彼との関係において、やっと恩返しとかのターンを終え、未来への道程を踏み出せる。



さらすところから始めるのが最近流ですか。

最近のタイムスケジュール。
11:00~12:30:起床~通勤準備~通勤(仕事しながら)
12:30~23:45:仕事
23:45~ 0:30:通勤(仕事しながら)
 0:30~ 4:00:食事したりお風呂入ったり。日によってはやりかけの仕事やったり。
 4:00~11:00:睡眠

感覚的な比重
仕事:仕事以外=8~9:1~2

おおむねこんな調子。身体のコンディションは完全にほぼ常時仕事仕様となっている。
みんなどんな感じなんでしょう。
とりあえず、こういう奴が所帯持ったりしていいのかな、と常々思う。

ものすごい不定期だけど、一応持ってるしTwitterのアカを晒しておこうかな。
左にもリンクを貼っておいたけど、「KingKetaro」で検索すればあるんじゃないの。
尊大。



ひさかた、にちあさ、がしかし、かたより、おおきい。

○天装戦隊ゴセイジャー
・さかなクンさんが出てきた辺りまで観て寝た。

○仮面ライダーW
・問題なく目覚める。
・おやっさんの関係者を絡めることで翔太郎の半人前っぽさを出すのは良いと思うが、そもそも映画観てない人にとってはおやっさんのキャラ像がぼんやりしていてイマイチ味にならないんじゃないかな。
天道じゃないけど、「おやっさんが言ってた」みたいなエピソードがテレビ中ではほとんどないから、鳴海壮吉を慕ってた人たちの思いの強さみたいなものが読み取りにくいんじゃというか。
映画観てる僕は勝ち組ってことでいいのかなあ。
・「俺たちはWになれない」までが早すぎる感じはする。前回のシュラウドの言葉でフィリップが揺らいでいるのはわかるけど、もう1エピソードくらいは騙し騙し闘ってもよかったような。まあでも、2話でわりときっちりまとまる感じがWの良いところなら、これでも良いのかも。
・BでボイルドでXでエクストリーム。Wだけどハーフでエクストリィィム。

○ハートキャッチプリキュア
・変身して戦闘を開始した辺りで寝落ち。まりんかわいいよまりん。


発売したのは少し前のことになるけど、DEAD ENDの復活アルバムを買ったのです。
METAMORPHOSIS
勢いみたいなものはちょっと弱いかもしれない印象だが、大人のメタルというか、懐が広い感じはする。
重たいという意味ではなくどっしりしてるっていうか。
聴きますか、ばしこう先生。
school food punishmentのヘヴィループから、良いアクセントではある。

以上趣味の話だけでした。



誤解を避ける意味で、いやいや説明不足を解消する目的で、昨日の話題をもう少し掘り下げておく。

「知る人」と「知らない人」がいた時、「知らない人」が馬鹿を見ることが圧倒的に多いように社会というのはできている。
それが専門性というものだから、そのメカニズム自体には必ずしも問題がない。
例えば魚屋は鍛えた目利きをもって品質と価格の釣り合いを考え客に商品としての魚を提供する。
この魚屋が善意や悪意のどちらを持っているかは関係ない。
僕の話題で重要なのは、「知らない人」は「知る人」に「魚の品質」や「価格の相応さ」について頼っており、その点においては「知る人」に優位性が生じているという事実だ。
そこに「つけこむ隙」があり、利益への道筋が悪意を伴わせたりする。
だからえてして「知らない人」が損をするんである。
逆に「知る人」が善意を向けて施し(物質的な意味ばかりでなく)をすると崇敬の対象になったりするんだろうと思う。

人は「知らないこと」があると、不器用な精度の低いイメージで補ってしまう。
「ゲームクリエイター」に任天堂の宮本さん(マリオとかゼルダとかWiiFitとかの人)とけたろうがいたとして、「宮本さんは有名だからすごくて、無名のけたろうはすごくない」という話になってしまったりする。
そこには宮本さんに対してもけたろうに対しても評価もない。宮本さんに関しては聞きかじった知識をもとに想像してみる程度はあるかもしれない。
(それが知名度が高いということはそれなりの事実があってのことであり、世間的評価とはそういうものである、という話はここでは置いておく)

とにかくそんな調子で、自分の「知らない」ものを語る時、目測は大きく狂っていることに無自覚なまま言葉を連ねることがいかに自身に危険をもたらしかねないか、説きたいんである。
僕は「知らない」こと自体を責める気は、実はそんなにない。(そう見える文にはなっているかもしれない)
ただ、自分が「知らない」可能性にくらいは自覚的でいるべきなのでは、と思っているのである。
無自覚なことにすら無自覚なのは、怠慢に他ならないと思えるのだ。

そして、その怠慢を叩き直すのが、自分の使命なんじゃねーのかなー、それがデキル者の務めなんじゃねーのかなー、いやー俺様ってば辛いねー。
ノブレス・オブリージュ。


そんなわけで触発はここまで。
小説、書くけど、今はゲーム作る。


ところで、school food punishmentの1st album「amp-reflection」が発売に。
amp-reflection(初回生産限定盤)(DVD付) amp-reflection
左が初回限定版で右が通常版だが……イメージリンクだと判別がつかないな。
ヘヴィループ。
きゃっきゃ。
Vocalの内村友美かYUIと知り合ったら惚れそう。
きゃっきゃ。
うふふはない。



ある意味で、先日のTGPの話と対になる話。

僕の勤め先であるゲーム開発会社は、いわゆる「版権物」を多く扱っている。
自分が直近までやっていた「REBORN!」は週刊少年ジャンプ連載作品であるし、その前の「ハルヒ」はここ数年内最大級ヒットの小説作品である。僕が直接は関わっていないタイトルにしても、おおむねはそんな調子だ。
そんなわけで、「次の仕事は○○○(タイトル名)かも」といった話や、「どこそこの会社で△△△を作ってる」といった類の話は色々と聞こえてくる。
あいにくと漫画家や作家本人と接する機会に僕は恵まれていないが、窓口たる担当編集等には会うことにはなったりするので次の展開を聞くことになったり、アニメの製作スタッフなんかと話す中で思わぬこぼれ話を聞くこともある。
版権物のゲーム化というのは、大半が「書籍⇒映像媒体⇒ゲーム化」という流れであるので、仕事の流れで言うと二次創作どころか三次創作ということになる。
しかして著作権者から公式に権利を取得して製作しているわけなので、つまるところ僕らはまさに「プロの公式同人作家」といったなんだかよくわからないものになる。

さて、何を言いたいかというと、「周囲」と「僕」との差についてだ。

僕の周囲にはオタクが多いわけであるが、僕は自分が携わったタイトルについてはいわゆる裏話的なことを色々と知っていたり、単純によく読みこんでいたりするので、彼らの口からそうしたタイトルの話が出てくる時、強烈な温度差や造詣の深浅の極端な違いを目の当たりにすることになる。
差があるのは当然のことだと思っている。
僕はそれを仕事にしていて、一抹のプライドがあり、追従を許さないだけの時間をかけている。
世界の誰より身体を懸けている作者に次ぐべく、だ。
だから、大衆はそれで良いのだろう。

しかし、僕はこうした感触の中で、「政治家」と「国民」とか、「王族」と「平民」の間に横たわる、歴然とした支配の根幹を見たような気分になる。
ものを「知らない連中」を「知る者たち」がコントロールしている、という構図だ。
完全なるトップダウン。
近年はインターネット内を中心に、「知らない連中」の声を直接目の当たりにする機会が増えているが、彼らは「知る者たち」に比べて圧倒的に数が多いので、力による統制の少ないインターネットという環境下においてはこれらが数の威力で大勢に思え、フラットに見えてしまう。
そのせいで、「知らない連中」に過ぎない人たちが「知る者たち」の領域へ足を踏み入れかけているのではないかと勘違いしてしまっていることが多くあると思う。
継続的にということではない。瞬間的にそう思ってしまう時があるはずだ。僕とてそうだ。
しかし、薄々知ってはいるはずだ。自分たちがなんてことない者でしかないということを。

だからこそ鬱屈とした気分が芽生えたりしていないだろうか。
ネットが傍らにある状態で青春時代を過ごした僕らのような世代以下の人間たちにある、どこか無理に大人びた感じや結局子供じみた感じや退廃的な意見を口走りがちな体質は、「不明確なままシステムの存在を体感してしまったこと」によるのではないか、と思わないではない。
「結局自分が何をしても世の中は変わらない」
多くの意見を同時に耳にすることが可能となった今だからこそ、そんな感傷を抱きがちなのだ。

しかし、そんな風に物事を理解したフリをしてしまっていないだろうか、と問いかけたくもある。
そういう人にこそ僕は「だからお前は馬鹿のままで、もの知らない人間のままなんだ」と言ってやりたい。
世間的に見れば、世界的に見れば、僕の日々やっていることなんて全然大したことではないだろう。
そんな僕に「すごい」なんて言葉を与えてしまうお前らは今すぐ考え直せ。
フラストレーションがあるなら脱却を目指してあがくなり、障害と見れば叩き壊す気概を持つなり、周囲にそんな気分の人間がいないか目を配るくらいのことはしてみろ、と。
できないならやり方を叩き込んでやるから頼ってこい。

ある頃から、専門学校の同級生たちの飲み会に参加するのが大嫌いになった。
そんな気分を強烈に感じるようになっていったからだった。
そして、今のままなら、TGPもそう遠くないうちにそんな場所になってしまうのではないか、という危機感がうっすらとある。
そうした場が嫌だったから、自分で作ってみようという気になったのに。
僕は説教臭くて、おせっかいで、異様に自分本位な人間だ。
気に入らないものなら、手の届く範囲なら、殴ってでも撫でてでもどうにかしたいと思ってしまう。
ああもう色々気に入らない。でもほとんど全部、切り捨てるのは無理。
だからフラストレーションを糧にあがいて壊してしてみる。

なかば強引に話をスライドさせてしまったが、ゲーム開発の話から飛躍したとあなたは思うだろうか。



うちの父ちゃんに心配されたので。
引越しをやってネット環境を整えていなかったり、会社で記事作成するのがはばかられたり、行き帰りの電車で最近PCを使っていないからそもそも記事作成自体をしていなかったり、といったことが更新が半月ばかりなかった理由なのだが、まあそんなことはどうでもいいっすね。
激動の2週間あまりだったとだけ書き記しておく。


話題変わって、TGPのこと。
参加したことのない人のためにまずはざっくり説明する。

「TGP」は「テーブルゲームの会(Table Game Party)」の略で、その名の通り卓上でアナログゲームを遊ぶ同好会である。
「カタン」や「スコットランドヤード」や「マンハッタン」、最近勢いのある「ドミニオン」なんかを、平均11.5人が貸し会議室にかれこれ6時間ほどこもって触れる、インドアな、部活的催しだ。
遊び終えると、さらに4時間くらい飲み会をやる。
実に半日、遊び通しである。
余談だが、名前は「卓上遊戯部」とどっちにするか迷った。
WHOとかに匹敵しそうな雰囲気でTGPにしといて良かったと思う。

なんでこんなものを主催するに至ったかと言えば、まあ色々と理由はあるのだけど、最たる動機は「自分中心で社交場を作ろう」というものだ。
とりあえずは僕の友人知人に声をかけて基礎を形成し、そのうちみんなが僕の知らない人を連れてきてくんねーかなー、という下心からである。
ついでの思惑は今ひとつ達成されていない感があるけど、僕の予定がつかずにたじろいでいたりすると、「次はいつやんの?」といった催促が来るくらいにはみんなの生活の中の一つの出来事として馴染んできているようで、1月に1回集まる口実としてはおおむね良好に機能しているようだから、成功と言っていいんだろう。

ここからはまったく個人的な話であるが。
僕は、駆け引きが好きである。
何もゲームの上だけのことではない。
生活のそこかしこにある「やりとり」にある「駆け引きめいた意志の交錯」が楽しいと感じるのである。
真正面から歩いてくる人と、「どちらがどのタイミングで避けるか」とか、人と話していて、「いかに自分に都合の良い条件を相手に呑ませるか」とかね。

さて、僕の稼業はビデオゲーム製作なわけだけど、テーブルゲームとの間にある大きな差は、この「駆け引き」があるかどうか。この一点に尽きる。
のめり込めるほどの「駆け引き」を実現するには、ある条件が満たされなければならない。
相対する者同士が、相手の熱気や存在感を認識し合うことだ。
相手の一挙手一投足一言一句から、勝ちに向かう欲、成功へのもがき、ミスへの恐怖を見てとり、自分の成功に目を向け、失敗への恐怖を克服する行為だ。
コンピューターとの駆け引きがなかなか熱量を帯びにくい一番の要因は、ミスへの緊張が奴らにはないからだろう。
(余談だが、そういう部分の実現につっ込んでいこうとしているビデオゲームクリエイターは少なからずいるが、それの実現は異様に難しい)

アナログゲームはとても手間がかかる。
人と一緒に遊ぶには体ごと移動して落ち合う必要があるし、机とイスを並べる必要があるし、ボードを広げたりカードを配ったりする必要があるし、人としゃべる必要がある。
しかし、その労苦をかけることでなんとも簡単に手に入る肉感があり、圧倒的な情報量を誇る。
ゲームデザインがするのは、その情報量を使えよ、使いどころはここだぞ、とささやきかけることなのである。

ゲームというのは、人が遊んで初めて完結しうるものだから、その研究をするためには、それを実感するのには、そうした「駆け引き」の場を「駆け引きのツール」たるゲームを主軸に据えて作るのが手っ取り早かろう。
言葉にまとめたのは初めてだけど、こうした感触自体は遥か昔からあった。
それを実行に移してみたのが、1年と2ヶ月ほど前になってからだった、ということなのだ。



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