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けたろうさんのことがそれとなくわかるところ
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朝、出勤前にはテレビをつけておくことが多い。
(朝と言っても10~11時台。僕の生活感覚における朝)
それはともかく、ザッピングの途中や、昨晩のチャンネルの流れ韓国製作のドラマを見かけることがある。
いわゆる昼メロ的な内容が多く、大抵はしがらみやうらみつらみを乗り越える脱却のストーリーであるような気がする。
楽しみに待っていて観るわけではないから前後関係も何もわからず、本当に眺めているだけなのだけど、どの番組でも気になることが一つある。
音声と字幕の違いである。

字数や時間に制限のある字幕に表現においては、極力圧縮するのが通例で、その労苦はよくわかる。
(ゲームもそういう事情を伴うことが多いから)
ただ、韓国ドラマにおける音声と字幕の違いというのは、他のそれに比べて圧倒的に違うのだ。
以下はその例。

例1)
音声「本当に私なんかにうまくできるのかしら」
字幕「私には自信がない」
まあ、要約だと言える。マシな方。

例2)
音声「あら、彼女には両親なんていやしないのよ」
字幕「彼女は孤児なのよ」
要約と言えばそうだが、ニュアンスがどうも違う気配。
(直前の別のキャラクターのセリフでは「ご両親~」等と言っているし)

例3)
音声「俺は自分の耳で聞くまでは決して認めんぞ! わかってるのか!?」
字幕「ちゃんと説明しろ」
要約し過ぎて、もはや先回りしている感。

輸入の映画や金曜ロードーショーやら土曜ワイドに比べて、字幕の文字が大きめなのは視聴年齢層を考慮してなのかと推測するが、まとめ方がかなり大胆。
音声を聞いていることを信じているのか、「だいたいわかりゃいいだろ」という姿勢なのか、単に下手なのか。
確かに、10文字そこそこに収めるのはなかなか大変そうだが。
視聴者の感覚でいうと、アレはどう受け止められているんだろう。

視聴者としてのあの字幕に対する僕の印象は、「字が大きくて画が見にくい」し、「音声との違いが気になって笑いがこみ上げてくる」ので、総合的には「邪魔」だと感じる。
字幕の役割は聴覚のフォローなわけだから、十分な音量で視聴でき、生活に支障のない耳の性能を持つ僕にとっては、かもしれないけど。

でもなー、思い出せたのは上の例くらいだけど、その瞬間その瞬間で笑っちゃうのに遭遇すること、けっこうあるんだよなー。
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すっかり更新する習慣がなくなってしまった。
不本意ではあるので、出力を増やしていこう。


誰かを責める意図はまったくないのだけど、思ったことを書いておく。

自分は昨年に祖母が亡くなっているので喪中なのであるが、それを知らない人や忘れている人からの新年の挨拶は、もちろん「あけましておめでとう」だ。
そうした場面では挨拶を慎んで事実を伝えるのが正道なのかもしれない。
だがしかし、「あ……ごめんなさい」となってしまうこと請け合いで、なんだかそれは水差すみたいで悪いなーと思えるから、こちらも「あけましておめでとう」と返すことにする。
「喪中だから新年の挨拶を控える」
これが一般的とされている態度だ。
喪中の身で、この行動の是非はどうなのか。

喪に服すというのは、死者による邪気や汚れを落とすまで人様と接触するのを避けるというのが本来の意味であるらしい。
しかし、今や「死者=汚れや邪気をもたらす存在」というような観念は相当に薄れていると思う。
「人が亡くなった」ことは「悲しい」ことであり、手厚く葬ることは尊ばれるが、祓いに対してはかつてほど重きを見出していないのではないか。
「喪中だから新年の挨拶を控える」という行いは、ずいぶんと形骸化していることになる。

現代の宗教観や倫理観においては「○○が亡くなったからそんな気分じゃないんだ」はわかるが、「すいません、自分、穢れてるんで」というのは、かなりしっくりこない(という人がほとんどだと思う)。
挨拶代わりに「お疲れさま」と言い合うこの国で、文化や伝統の右に倣えが通用しにくくなっているのは確実だと思うので、もはや理由を失った「喪中だから新年の挨拶を控える」ことに、僕は意義を感じない。

「あけまして~」の挨拶は、年始において「こんにちは」と同義で、その直後「今年もよろしく」と言い合うのが通例だ。
一年を一区切りに「よろしく」の気持ちを更新するのがとても有用だということは、誰しも肌身に感じていることだと思う。
だから、その機会を無下にしてしまうのはけっこうな損益ではないか。
もったいない。

そんなわけで、「別に挨拶くらい、それこそ右に倣えですりゃいいじゃん」と思っている。



余談。
TVや音響の業界は、「どんな時間だろうと挨拶はとりあえず『おはようございます』」で通っている。
要は、定着したのが「おはよう」だったからそれを使っているだけで、「やあ」でも「おっす」でも、やってることは同じだろう。

しかし、「お疲れさま」という言葉を挨拶代わりに使うことに違和感がある。
「お先に失礼します」への返しとして「お疲れさま」はわかるし、帰りを待っていた家族が顔を見て「お疲れさま」もわかる。
が、いきなり「お疲れさま」と先制されてしまうと、実際は疲れていない場合になんだかもやもやすることになる。
「言葉の意味」と「役割」が合致していないじゃんよ! と。
気にしなきゃいいのだが、僕の観念では気になるのだ。

矛盾している。



前回の記事が自身の誕生日の翌日。
かれこれ2ヶ月の空白で僕は何をしていたのか。
それは1ヵ月半後の発売日を迎えると見ることができるようになるので、
興味のある人は手にとっていただければと。

以下、断片的に毒吐きとか覚書きとか。

裁判員制度の話題と寄り添って顔を見せる「裁判員担当者のその後のケア」とやら。
クソくらえ。なめんな。と思う。
自分がその立場に置かれたら?
しんどいだろう。そりゃあそうだ。自分のことなんかより、他人の人生のことを考えるなんてのはいつ誰がやったってしんどい。
でも、それは裁判官達が職務の中とはいえ日々行なっていることだ。
どんな人間がどんな人間に対してどんな判断下しているかを知らないだけで、そうした法制度は歴然とあるんだ。
人が避けたい仕事をやってる人間がいるから、他の人が避けていられるんだ。
その仕事をいざ自分に振られたらイヤだなんて口にする「一般人」は社会から追放されてしまえ。
一般の方に対しては負担が大きいだなんだと言う「知識人」は甘やかすのも見下すのも大概にしとけ。
自分が、自分の周りが嫌な思いをしないように、判断を繰り返すのが生活ってもんだろう。

とはいえ、覚悟をするなんてことはとても難しい。
なんでもかんでもあらかじめ想定するなんて無理難題だ。
だけど、だから、いざその局面を目の前にした時、不満や不安を飲み下して堪えられるような胆力のトレーニングは、いつだってし続けておくべきだよ。
それをやらないのは、卑怯だ。

東京都青少年健全育成条例について。
法的規制すんのはマジやめろよー。
そう思う一方で、昨今の諸々の傾向は調子に乗り過ぎ、とも思う。
性とか暴力の描写の過激さは実は主要な問題ではないと思う。
それは今に始まったことではないし、別に最近のものがとかくすごいわけではないから。
問題視されるべきは、多くの人間の目に触れる場にそれらを解き放ってしまったこと。

インターネットの存在は切っても切れない。
インターネット上で扱われているある話題を、あたかもそれがマジョリティ側の、マス的なものだと錯覚してしまった経験を、おそらくただ1人の例外もなくインターネット利用者たちは持っているはずだ。(自覚はないかもしれない)
「時間」や「空間」をすっ飛ばしてしまうこのメディアは、同時に「量」的な情報をそぎ落としてしまいがちだ。
全体量が累積していく特性から、おのずと「質」のみを抽出していくようになるからで、その傾向は日を追うごとに強まるばかり。
むしろ、「質」だけが残る。

そういった「声の大きさ」がわかりにくい環境からの情報に後押しされて、性描写やらを縮小再生産的に、焼き畑農業的に行ない、しかもそれの露出機会を増やしていったことが首を絞める結果になっている。
オタクの居直りがまかり通ってしまうほどに、露出の場は押し広げられてきてしまった。
こんなことになる前に自粛するべきだった。
それで生活している人間が多数いることもよく知っているけど、誰も別にこうなることを望んでいたわけではないと思うけど、なってしまった。

法規制はやめろよーと思うが、それこそ自己責任で不用意に失った信用くらいは取り戻す努力をしないといけないんじゃねーのかなあ。

しかし、最後の更新のタイトルが「R.E.S.」というのがなんともかんとも。
僕の、運営中断したウェブサイトの名前なんすね。
世俗と没交渉の、自分だけのためのシャレのつもりでタイピングしたはずだったんだけど、よもやそこから更新が止まるとは。

僕の文って、僕が書きながら思っていることの20~30%くらいしか落としこめていない気がしている。
そういうもんだとも思っている。
上ではわざとパーセンテージで書いたが、思っていることをもっと高い精度で人に伝えることよりも、そもそもその分母をでかくしたい。
仕事の時はそうもいかない。
費用対効果が悪すぎるから、精度を高めて労力に対しての利益を上げていくしかない。

わかりにくい理由は大体わかっている。
単語や文節といった小さな単位に対して、自分的に特別な意味を持たせ過ぎていること。
これについては、伝わらなくていいとは思っていないが、別に全部通じなくていいとも思っている。
ただ、「別解釈用意してござんすよー」ということ自体に気づいてもらえないと大損をこく。
どちらかというとそこが問題。
「なんかコイツの言うことには含みありそう」と思わせる、凄みとかそういうのが課題。

人とは全然違う着想、というほどのことはやっていないと思うが、どうも微妙に位相がズレている。
ちょうど更新停止前の記事でゲームがゲイノウがどうたらという話をしているが、あの辺りの話、自分としては非常に自信というか、確信めいたものがあり、話せばある程度の理解を得られるのだが、同意見を自らぶち上げるような存在にお目にかかったことがほとんどない。
何、やっぱズレてんの?

こんなことを考えると、僕は文筆業より、歌ったりのパフォーマーの方が性に合っている気がしてならない。
しかもアングラ気味の。
音楽、ほんとやってりゃよかった。

わーくん、来年度から社会人バンドやろうぜ。



返事。
長くなりそうだったので記事扱いに。

>ばしこう
僕が言っていた芸能は、君の指摘とは間逆で、「ゲイノウジン」に付随するような「ゲイノウ」。
「伝統芸能」的な見方をされないことも弱点の一つではあるだろうけど、切り口としては「ゲイノウ」として生きていないから「伝統芸能」になれないのでは、という感じ。
普通は逆なのかもしれないけど、ご時世からしてそのベクトルでないと「伝統芸能」にはなりえないように思うので。
ライブハウスや映画館や寄席に人が何百人集まって視聴する大衆娯楽とは違って、ビデオゲームはどうしても個人に根ざしてしまうところがあるから、どちらかというと小説や漫画のようなメディアとその点の特性は似ていると思うが、かといってあれらほど製作自体が個人から発露するわけでもないからね。
そうすると、「伝統芸能」たりえるだけの一種の信仰を獲得するには環境の力が必要になるんじゃねーのかなー、と。

だから、「ゲーム脳」の話題は、ゴシップとはいえゲームがここでいう「ゲイノウ」に片足突っ込んでいた瞬間ならではの出来事。
最近はそういう取り上げ方すらされず、「最近のゲームはすごいねえ」と言われるだけの隔離メディアとなりつつある。
クロヒョウがTVドラマをやってるけど、ああいうムーブメントは本当に少ない。

「プロゲーマー」の存在はイメージの定着がどちらへ転ぶか見えなくて微妙なところだよね。
要するに「すごい人がいるもんだなあ」と思ったとして、それに憧れ目指せるか、それに呆れ気味悪がるか。
囲碁とか将棋とかの打ち手はある程度社会的地位を認められているけど、それは「数百年以上の歴史があるから」って裏打ちの効能も小さくないと思うし。
バックボーンがあれば人はいやに納得してしまうものだから。
そういう武装の弱さが、ビデオゲームを戦えない、戦いにくい現状へ追い込んでいる原因なんだと思うんだけどね。


>怪詩人
確かに「番組が面白ければ」成立はするだろうけど、
それをやるためには最低でも個人レベルでの強力なコネクションが必要になることと、
「ゲームである必要性」を見出すことが異様に難しいだろうことはうけあい。

昔は早朝や深夜にゲームの情報番組があったけど、もはやそんなものはないし。
伊集院光がラジオでしゃべることがあるとか、いわゆる「ゲイノウ」メディアからの発信は、
ほんとそんなもんなんじゃないだろうか。


これらを解消するには、色んなアプローチが必要だと思っていて、
例えば僕はゲーム開発者としてはいわゆる「キャラモノ」ばっかりやっているけど、
そういうタイトルが馬鹿にされないだけの存在であったなら、
もうちょっとマシだったんじゃないか、とか思うわけです。
「キャラモノだから(どうせ)ダメ」って風潮は、事実の堆積からできたものだから、
真面目にやんなかった先人たちは朽ち果てろよと思うし、
自身のこれまでの行動に反吐が出るとこもあるし。

「画期的」なモノが必ずしも世を救うわけじゃないというか、
ビデオゲームにおける「画期的」なものは、徐々に内向的になり過ぎている感もあるし。
実名の例で申し訳ないけど、開発者や血の濃いゲーム愛好家からグラスホッパー・マニファクチュアの開発タイトルは熱い支持を受けている面もあるけど、そもそもゲームに興味のない人にとっては「やっぱゲームって変なの」と思われる材料になってしまいかねない部分もある、っていうか。(もちろん、ゲームに興味のなかった人がこれをきっかけに手を伸ばす可能性もあると知りつつ)

だから、色んなタイトルが必要なんす。
ただ、一つの条件が必要で、それはすべてが「伝統の礎たり得る何か」を持っていること。
「伝統」は数々の人の記憶が連綿と積み重なってできあがっていくものだと思うので、
「昔遊んだ○○はけっこう面白かったな」とか「△△は自分にとってバイブル的な存在」とか、
そういう思いをどれだけ抱かせてこれたかが大事っていうか。
埋没しない強烈な思い出にならなくてもよくて、とにかく最低限、ビデオゲームに悪い印象を持たれないことを続けていくしかないんじゃないか、とね。



本日付けで27歳に。

漠然と、「20代中盤が人生で最初の華」などと学生の時分から思っていたのだけど、中盤といってもいい最後の歳を迎えたようである。
僕がそう考えていたのは、10代のうちに溜め込んだり育てたりしたものを満を持して使うことができるようになるのは、それくらいになってからなんじゃないかと思っていたからである。
10代のうちから活躍できることもあるが、そんなに間違っていない気もする。
問題は、今の自分がそれであるか、その一点だけだ。

怪しいかもしれない。
もうちょっと、いや、もっとうまくやれそうなものだと感じる。
がんばり方を間違えているような気もする。

この辺りのもやもやを飲み下さないといけない。

ちなみに、オーズに触れていないのは気乗りせず2週続けて見逃してしまってるからござる。

余談。
うっかりこのテキストを会社の日報に書きそうになった。



なんでミュージシャンは見てくれがウリになり得て、ゲーム開発者はなりえないのか。
「『商品開発』による『サービス業』」であることは共通している。
「興行」「ショウビジネス」の面があるか否かだけか。

TVという媒体との距離が近いアニメは、似たようなフィクション度合いでありながらその辺りが少し違う。
90年代から続く声優の業態とかがわかりやすい。

そういう意味で、いまだTV主体の芸能文化が根強いこの日本において、芸能に片足を突っ込んですらいない数少ないメディアがゲームだと言ってもいいのかもしれない。

文化としての存在感を主張せず、ひっそりと好きなようにやってきたことのツケが回ってきているのではないか。
少子化が、開発費の高騰が、技術開発における体制のなさが、そういった事情たちが日本のゲーム産業が停滞や衰弱する傾向に拍車をかけているというのもまた事実の一つであろうが、少なくとも商売のシェアが伸びないことの根本ではないと思う。
「その存在を知らない、知る機会がない」
このことがいかに望まない結果を招きがちか。

ある程度の時間=予算がないとどうにもこうにも立ち行かない現実はあるし、海外との技術開発力の差の問題は並行してなんとかしないといけないけど、うわっつらにどんな建物を築くかばかりを気にして実は土地がダメになってて建てることができなくなっていた、なんてのはそれこそ愚の骨頂。

そんなわけで、任天堂の理念構築と、セガの名越さんの動向を僕は支持している。
自分の行動がそれに伴えてはいないのが情けなくはあるけど、ああいう向きがもうちょっと必要なんじゃないかな、とは思う。

ちなみに、小説はこれの逆パターンね。
芸能に足つっこんでるクセに「私たち、ちょっと違いますから」ってすまし顔なんてしちゃうもんだから大勢には影響できないポジションなの。
まあ、その立ち回りゆえにポジションを得られている部分もあろうけどね。

ヒーロー像を示すことができないメディアは、新陳代謝できずに死滅する。
ゲームは、それを行なう場を与えられてすらいない。

この話、僕の中ではかなり確固たる自信があるというか、うまく語れていないかもしれないけれど、少しでもひっかる人がいたら、コメントを欲しいです。(コメント機能じゃなくてもいい)
ほんとは本を書くくらいの意気込みで分量書かないと伝えられないんじゃないか。



オーズを観そびれて、特撮ブログですらなくなる週末。

でも、ガンダム00の劇場版は観てきたよ。
思うところは多いんすよ。

・ファーストコンタクトのSFでした。
そう乱暴にまとめるのは簡単だけど、現代からの地続きの物語にあの結果を与えたことに結構な意味はある。
ましてやロボットものに。テーマ性の取り方で言えばターンエーの逆をいってる。

ただ、あそこへ人々を導くには道程があまりにもデコボコ。
足をくじいてしまう輩が出るのもしょうがいし、疲労で頭が回らなくなるのも致し方ない。
僕は「わかった」と思っている方だけど、わかんない人がいるのはわかる。

余談だけど、同じロボットアニメというくくりにとらわれて「トップをねらえ!」みたいとか、「マクロスF」みたいとか言っちゃう人たちはなんなんだろうな、と思う。
(「マクロスF」はランカがいた時点で状況が違う。基本的にバジュラは敵)
上辺の解釈にすらなってなくて絶叫テンションで説教もの。

「ガンダムじゃない」とかいう種類の非難をするやつは滅びろ。
そんなんだったらガンダムなんてさっさと滅びればいい。


・勝地くん(妹の元同級生)が声を演じたデカルト・シャーマンはけっこう良かった。
環境の差とかが同じイノベイターでも「刹那になれなかった刹那」を作ったわけで。


・戦闘描写はデカルトのガデラーザが全体的に良かった。
他は物量戦過ぎて感慨が湧きにくい。(あくまで戦闘描写だけで考えると。展開的な意味は別にして)
グラハムの急速停止が1位。


・クレジットの「E・A・レイ 古谷徹」で噴く。
こういう余計なことをちょこちょこやるのは黒田さんのいいとこでダメなとこ。


・ガンダムに攻撃性をもった金属生命体を投入するとああなる、っていうのが……「ガンダムの絶対性」を潰してくれてアリガトウ!


・新MSをアレだけ投入しておいて性能描写らしきものもほとんどないし(速すぎて認識が難しいので、ないも同然、と受け止められてもしかたなし)、広告としての機能が弱い。
もはやマイスターたちの話ではなくなっていて、機体1つ1つの物語は全体の質量からするとあまりに小さい。
まして観客はどうしたって「ソレスタルビーイング」を通してフィルムを追いかけてしまうので、その彼らの主観が弱い構成ではどう観ていいか迷うのも当然だろう。
肝心の刹那は「うまく言葉にできない」と語ることに消極的なのでつかみにくいしね。


・元々の終着点がこういうところにあったのだろうから、異論はない。
劇場版まで含めた00全体として、「『来たるべき対話』はいつか訪れるのかもしれない 完」みたいなヒドイことにならなくて良かった。
1stシーズンの〆も、2ndシーズンの〆も、劇場版の〆も、すべては「《対話》による《和》」の尊さを(その実現の困難さも込みで)叫んでいて、共通しておりブレていない。
「納得できていない」人たちはおそらく、些細な不満の積み重ねでその不満を大容量なものと捉えているだけなんじゃないか。

物語を見せるのは難しいね、ということです。
主題は良く、語り口が不味かった、それだけのことのはずなのです。
だから、その語り口の不味さを批判してあげてほしいのです。


とりあえず、ひと段落したらプラモ買いにいこうっと。



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